不条理な苦痛

天野環

“報道”の仕事に携わり18年。 “天職”とは程遠く・・・。

路上で“ゴドーを待ちながら”

2011/05/04

3・11から間もなく2ヶ月。「想像を絶する」状況に置かれた場合、有能な人間はよりその能力を発揮し、小賢しい人間はより小賢しくなり、無能な人間はより無能さをさらけ出し、饒舌な人間はより饒舌になり、フットワークの軽い人間はよりしなやかになり、腰の重い人間はただじっと「何もしない」・・・要はその人間の本質的な部分がはっきりするものだと、何となく判りました。良くも悪くもです。勿論そうでないケースも多々あります。当方は・・・といえばひたすら無口になりました。意味のない言葉を口にする苦痛に耐え切れず、詰まるところ仕事にもなりません。自ら言葉を立ち上げるには・・・「時」を頼りにするしかないのかどうか(本来なら「人」なのでしょうが)。どこもかしこも、「まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる」(賢治)。

で(接続語になりませんね)、タイトルですが、「不条理な苦痛」は市井三郎著「歴史の進歩とは何か」(岩波新書)の中に出てくる言葉です。高校時代の卒論(があったのです)執筆時に繰り返し読んだ本です。卒論などと呼べる類のものではありませんでしたが、テーマは南北問題(今、余り聞かなくなった言葉ですね)。要は「絶対安全地帯でものを語る自分」と、「差別と貧困と戦争が隣り合わせの絶対悪条件で死に逝く人間」との関係は一体何なのだと。市井氏曰く「ただいま現在、不条理な苦痛をより多く負うているのはどちらの側であるのか。この問いを避けてとおることはできない」。この言葉に、ある種「すべて」が語られていると、今でも思っています。

「非常」が「日常」となって早二ヶ月。「来ない」ゴドーを待ちながら、できることしかできません。

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