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No.1336に関するツリー
- ▼-村上春樹さん [島田陽一(仮名)] (2011/06/12 13:26)
- ├Re:村上春樹さん [長文] (2011/06/12 13:29)
- │├Re[2]:村上春樹さん [島田陽一(仮名)] (06/12 13:30)
- ││└Re[3]:村上春樹さん [等々力為五郎] (06/13 23:41)
- │└Re[2]:村上春樹さん [気になりましたので…] (06/15 02:39)
- │ └Re[3]:村上春樹さん [長文] (06/16 20:09)
- ├Re:村上春樹さん [長文] (06/14 21:18)
- │└Re[2]:村上春樹さん [傑作かな] (06/17 21:32)
- ├[現実主義の陥穽 丸山正男 [島田陽一(仮名)] (06/17 20:49)
- │├Re:[現実主義の陥穽 丸山正男 [shimoue] (06/20 23:20)
- ├現実主義の陥穽 丸山真男 [島田陽一(仮名)] (06/18 00:04)
- ├Re:村上春樹さん [長文] (06/20 21:26)
- ├集合的責任 [島田陽一(仮名)] (06/22 02:09)
- └Re:村上春樹さん [長文] (06/25 01:02)
- ├Re[2]:村上春樹さん [長文] (06/25 02:10)
[1336] 村上春樹さん
- 投稿者
- 島田陽一(仮名)
- 投稿日
- 2011/06/12 13:26
作家の村上春樹さんがスペインの「カタルーニャ国際賞」の授賞式スピーチで原発批判を行い、ちょっとしたニュースになっております。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html?toprank=onehour
要旨を抜き出すと以下の部分だと思われます(以下引用)。
「我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。」
原発の問題は
「人類が手に入れられる中で最大のエネルギーである『核の力』について、この国は今後どう向き合っていくか」
というところが、本質的な問いになると思っております。
「脱原発」をしたする場合は、それがいわゆる「ソフトランディング」であっても、国内の原子力工学の技術は壊滅的な状態になると思います。縮小市場と見なされた瞬間に資本は手を引くからです。「核兵器自体は持っていないが、その気になれば作れる国」という、安全保障上の位置付けも同時に失うことになります。つまり「発電方式をどうするか」だけの話ではない。国として「核の力」を放棄するというのはそれなりに勇気を伴うことなのだろうと推測します。
表だって出せない話だとは思いますが、だからこそ議論がかみ合わない。推進派の本音は「一度手にした核の力を手放したくない」だとすれば。
もちろん国土の狭い日本において、自然エネルギーを安定的に利用することのハードルは高い。二酸化炭素排出も減らさなければならない。現実解はあるのか。
「今は無い。でも今後探っていく必要がある。少なくともこれまでとは違う目標を目指して進もう」というのが村上さんのメッセージだと思われます。
さて、どっちに進みましょうか?
[1337] Re:村上春樹さん
- 投稿者
- 長文
- 投稿日
- 2011/06/12 13:29
島田陽一(仮名)さんには申し訳ありませんが、
私はとてもこの村上春樹スピーチを評価することが出来ません。
スピーチの中で原爆と結び付けて脱原発が語られていますが、
その論理構造はとても幼稚なものにしか見えない。
>何故そんなことになったのか?
>戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感はいったいどこに消えてしまったのでしょう?
>我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
>理由は簡単です。「効率」です。
この安易な議論展開など、本当に村上春樹さんの言葉なんだろうかと疑ってしまうほどです。
大量殺戮兵器の原爆と発電システムの原発では論点も何もかも違うでしょうに。
原発を利用して原爆を作るという議論の中で絡めて展開されるなら分かりますが、
我が国は原発持ってませんし。
この4行以降もどこかで聞いたような意見をまとめあげているだけ。
脱原発の流れにファッション的に乗ったスピーチにしか見えません。
「村上春樹の」というブランドが付いているので
この発言はマスコミや識者に金科玉条のごとく持ち上げられるのでしょうが
無学な私からすれば最後の二段落以外は読む価値を見いだせない。
無論、海外向けであることやスピーチであることを考えれば、
分かり易い話にしたのかもしれませんが、それにしても安易な内容に見えます。
もう一つ嫌な感じを受けたのが、原発に対しては長々と話されているのに
他の大震災の被害については「無情」という概念と絡めてサラッと流されているように見える点です。
どこの媒体で読んだのか忘れましたが、
大江健三郎さんも震災についてはサラッと流し大半を原発について語っていました。
理解は出来ます。
現在進行形で福島の大地を汚し海を汚し、各地に汚染をばら撒いていることや
日本全土に未だ原発が稼働する中で知識人として言葉を尽くす必要があるということでしょう。
しかし、頭で理解できても生理的に受け入れられない。
2万数千人の方が亡くなり、土地の形すら変えてしまったあの大震災について
どうして前座のような扱いが出来るのだろうと。
もちろん話の流れやテーマというものもあるでしょう。
世間に向けて脱原発を訴える使命感もあるのでしょう。
でも「311」と省略して、あの震災を「きっかけ」としか捉えていないような知識人を見るにつけ
心の中に納得できないものがたまっていくのを感じます。
阪神大震災の時はもっと具体的な議論がなされていたように記憶しています。
(私の記憶違いかもしれませんが)
それもこれも原発の事故が悪いということなのかもしれませんけども・・・。
このスレでも荒角さんの提言から様々なご意見が出されていますが、
こういった様々な立場の方が冷静にそして客観的に議論することこそより求められていると思います。
[1338] Re[2]:村上春樹さん
- 投稿者
- 島田陽一(仮名)
- 投稿日
- 06/12 13:30
私が書いた内容よりも、「村上春樹スピーチ」というトピックに反応されたようですが、とりあえず2点ほど。
まず、村上スピーチの評価について書かれているようですが、私の評価も書かせてもらうと、彼の論旨はよく理解できますし、積極的に評価もしています。一方で長文さんのような「評価できない」という反応も無理からぬことかなとも思います。
私は被曝県の出身で、平和教育も恐らく他県の方々よりは多く受けております(筑紫さんの本では「広島・長崎以外では平和教育はやっていない」と書いてありました)。実際に被害に遭われた方々は、そうでない人に比べて「なぜこんなことになったんだろう」と深く思い詰める傾向があるのだと思いますが、被曝者達も例に漏れず考えました。
-「なぜ我々は原爆を投下されなければならなかったのか?」
「終戦を早めるため」とか「真珠湾の報復」とか「実際の街を使った核実験」とかいろいろな説があります。
私は「実際の街を使った核実験」というのが一番近いと思っています。その理由は村上さんのスピーチで使われた「効率」という言葉と、深い関係があります。
科学をそれなりに学ばれた方ならば、燃焼反応のような「化学反応」と「核反応」とでは、そのエネルギー効率に天地ほどの違いがあるということが理解できるはずです。科学的な観点では、「神の領域に人類は達したのではないか」という自己陶酔さえもたらす核反応の「効率」。実際に使ってみたくなる「魔力」がありました。
あまりにも力が強大であるが故に、それは次のような倫理的な問いをもたらすはずでした。
-「地球というちっぽけな閉鎖空間で、人類は人工的に核反応を起こすことが許されるのだろうか。下手すると地球を破壊してしまうのではないか」
ピンとこない方は、例として遺伝子工学と倫理との関係を思い出してほしいと思います。「科学の発達によって、人類は侵してはいけない領域に入ったのではないか」という問いです。
第2次世界大戦という戦争は、そういった倫理的な問いを未解決のまま封じ込めてしまいました。その結果、核反応を兵器として使い、発電のようなエネルギー源としても使ってきました。核実験による被曝やおぞましい人体実験、原発事故による犠牲者を出しながら。
「原爆」と「原発」とは話が違うと思われる方は、先ほどの倫理的な問いを思い出して頂きたい。
報道ステーションでは古館さんが「村上さんはあえて原子力ではなく核という言葉を使って原爆と原発を結び付けている」と分析していました。
村上スピーチは未解決のまま今日まで来ている倫理的な問いを想起させる働きがあるものとして、私は評価しています。
次に、以下の点についてです。
> 冷静にそして客観的に議論することこそより求められていると思います。
私もそのご意見に賛成ではあるのですが、そのいわゆる「大人の対応」の結果何が起きるかを予測してみました。
私の予測では「原発推進派の巻き返し」が起き、「今回の事故は不運が重なった特異な事故でした。シャンシャン」となりそうだと思っております。
再生可能エネルギーの開発に注力することすら行われず、「今度こそ絶対安全な」原発を、こりもせず中央構造線の上に建てたりするんだろうと思います。再生可能エネルギーは「非効率」であるという理由で。懲りない「彼ら」には厳しい目を向け続けなければならないと思います。
そういった意味でも、村上スピーチは良いところを突いていると思いますよ。
なお、私は直接被曝したわけではありませんが、先ほど述べた理由で被曝という体験は身近に感じられます。浪江町の実家を「失った」知人もいます。被害を実感しているものにとって、彼のスピーチは「よく言ってくれた」という気持ちになりますが、被害の実感のない人にとっては「感情的」「非現実的」なのでしょうね。
[1343] Re[3]:村上春樹さん
- 投稿者
- 等々力為五郎
- 投稿日
- 06/13 23:41
>長文さん
スピーチの原文を読んでみましたが、わたしには村上さんは被災地の人たちに大変思いを込めているように読めます。
どうやったら「他の大震災の被害については「無情」という概念と絡めてサラッと流されているように見え」るのかさっぱり理解ができません。
ですが、本人も「僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。」とおっしゃっているように、このスピーチでは原子力・核とどのように私たちが向き合っていくのか、そこを村上さんは訴えたかったんだと思います。
現在進行形の核災害のことを話したいのに、そのほかの被害のことについても延々しゃべらなければ話ができないなんて変な話じゃないでしょうか。
それから島田さんも指摘されておりますが、喉もと過ぎれば熱さ忘れるで「今回の事故は不運が重なった特異な事故でした。シャンシャン」になりそうな気は私もしています。
原発は道路や橋やダムと同じ政官財の鉄のトライアングルであり、作ること自体が(今の世代のとりわけ利権に絡む人間にとって)美味しい”公共”事業のようなものです。
かつて小泉政権のときに不要な道路建設を削減するとあれだけぶちあげておきながら結局はたいした実を上げられなかった”故事”からすると、既定路線の巻き戻しにかかるのではとの懸念は払拭できません。
私の出身は公共事業に頼る保守地盤なのですけれど、それだけに土建国家の利権の頑強さは、都市部で生まれ育った人よりは分かるつもりです。
>島田さん
とてもタイムリーな投稿ですね。
ちなみに私も被爆県の出身ですが、進学して他県に出て、就職して東京に出て、原子力・核に対する地元との温度差を感じます。
[1350] Re[2]:村上春樹さん
- 投稿者
- 気になりましたので…
- 投稿日
- 06/15 02:39
長文さん
村上氏は「無情」ではなく、「無常」と言っていました。
このふたつでは大きく意味が違うと思います。
私は2004年のスマトラ沖大地震で発生した津波を被災しましたががれきと化した街を見て、まさに諸行無常の境地でした。
[1352] Re[3]:村上春樹さん
- 投稿者
- 長文
- 投稿日
- 06/16 20:09
>気になりましたので…さん
大変お恥ずかしいところを見せてしまいました・・・。
誤字です、すみません。
失礼ついでにもう一つ訂正を。
×我が国は原発持ってませんし。
○我が国は原爆持ってませんし。
です。酷い誤字ですみません。
推敲もせず、大して読み返しもせずじゃ駄目ですね。
「無常」についてですが、私も日本人ですし、
村上春樹さんや気になりましたので…さんが言わんとしてることは分かります。
天災が多く周りを海に囲まれた我が国で
ある種の諦観があるというのは事実でしょう。
悲惨な災害を見て「無常」を感じるのは私も分かります。
村上春樹さんの主張も
地震津波は天災であり、原発事故は人災なのだから
人災である原発くらいはなんとかしようということなんでしょう。
ただ、スピーチの内容が原発問題に重きを置く中で
「無常」を使われると何となく納得できない感情が沸いてくるのです。
無神経な石原都知事があの大災害を「天罰」と言ったことがありましたが、
あの時同様の違和感と嫌悪感を感じてしまいました。
[1347] Re:村上春樹さん
- 投稿者
- 長文
- 投稿日
- 06/14 21:18
>島田陽一(仮名)さん
>私が書いた内容よりも、「村上春樹スピーチ」というトピックに反応されたようですが
これは本当に面目ない。
村上春樹さんのスピーチを読んでいくうちに色々と頭に浮かんできて、
ついつい議論をほったらかして思うままに書いてしまいました。
まず私は広島長崎福島出身ではなく、いずれの県にも縁もゆかりもないため、
島田陽一(仮名)さんや等々力為五郎さんと比べて軽い議論になる可能性、
また被爆や被曝の被害を受けた方の感情を逆撫でる議論になる可能性がありますが
ご容赦ください。
島田陽一(仮名)さんや村上春樹さんの考えと私の考えの一番異なる部分は
どこに「倫理性」を求めるかという点にあるかもしれません。
島田陽一(仮名)さんは広島長崎への原爆投下について
アメリカに実験の意図があったことを可能性として挙げられていますが
私もその可能性はあると思います。
しかしながら核兵器の非正当性というのは
アメリカの意図がどうあれ、「使えば大量に人を殺戮する」点にあるはずです。
核兵器に置ける倫理的な問いというのは
「核を使っているかどうか」ではなく、
「大量殺戮兵器であり、後世にも影響を及ぼす兵器の是非」にあるべきだと
私は思っているのです。
一方で原発については、
極端なことを言えばアスベスト問題や薬害エイズ問題と同じ領域の問題であると考えています。
つまり、様々な利権が絡み行政の作為不作為が生じた結果
甚大な被害を及ぼした点に倫理的な問題があるということです。
無論、原発の被害というものは上で挙げた被害と比べるまでもなく甚大なものになるでしょう。
しかし本質部分は上の行政問題と変わらないのではないでしょうか?
人の手に負えない「核」という共通項があることで、原発と原爆を絡めて議論するということを
私は完全に排除するつもりはありませんが、それでもやはり無理があると思います。
両者を結びつけて論じれば、両者の問題の本質が見えなくなり、
ただ感情的な議論を想起させるのではないかと思うのです。
(何故感情的な議論をすべきでないかは一番下で述べます)
>等々力為五郎さん
>現在進行形の核災害のことを話したいのに、そのほかの被害のことについても延々しゃべらなければ話ができないなんて変な話じゃないでしょうか。
仰るとおりで、その点については既に述べているように、
中心的なテーマや話の尺の長さの問題もあるでしょうし、仕方なかった部分もあるとは思います。
また賞金を義援金として寄付されていることから考えても
被災地に対する村上春樹さんの思いというものは分かります。
分かりますが、原稿全文(上)を読み返してみても全体的な感想は変わりませんでした。
ノーベル賞に一番近い日本人作家であるならばもっと別の表現が出来たのではないかと、
素人ながらに思えて仕方ないのです。
ここからは、島田陽一(仮名)さん等々力為五郎さん御両人に対しての意見になります。
お二人が共通しておられるのが、
「この機を逃せば原発推進派の巻き返しが起きてしまう」点だと思います。
これは私も一部同感です。
特に今まで利権を貪ってきた側は必死になってくるでしょう。
責任を取らずにウヤムヤにする人も出て来るでしょう。
彼らの意見を封じ込め、責任を取らせるべきというのは私も変わりません。
等々力為五郎さんが仰っているように利権を持つ人たちのしぶとさはすさまじいでしょうから、
彼らの影響を排するために政治を動かすことも必要になってくると思います。
しかしながら、利権を潰すということと議論も程程に結果だけを求めるというのは
私の中ではイコールではありません。
何故「原発神話」なるものが生まれたのでしょうか?
確かに利権を持ち情報を独占する側が圧力に掛け神話を築き上げてきた面はあるでしょう。
ですが一番の要因は、議論をする場がなかったことに尽きると私は思っています。
議論をせず情報を詳らかにしてこなかったからこそ幻想が生じたのではないでしょうか。
この機を逃すなという、お二人のご意見はごもっともだと思います。
しかし、「この機を逃さず原発を取り除く結果だけを出すべき」という意見には賛同しかねます。
私は、この機を逃さず日本の将来のエネルギー政策も含めた徹底的な議論をなすべきである、
そう考えています。
今回国民投票を可決したイタリアもかつて
チェルノブイリ事故をきっかけに脱原発を決めたらしいですが、
時間が経って原発再開に向けて動き出していました。(結局否決されましたが)
もし福島の事故がなければ果たして国民投票は行われていたでしょうか?
そう考えれば単に感情的に脱原発を求めるよりも大切なことがあるように感じます。
[1355] Re[2]:村上春樹さん
- 投稿者
- 傑作かな
- 投稿日
- 06/17 21:32
<単に感情的に脱原発を求めるよりも大切なことがあるように感じます。
脱原発は感情的でしょうか?
シナリオとして戦後の経済復興期に原発を推し進める側にたてば、どんな戦略や方策が考えられたでしょうか?
それこそ周到に計画された、原発推進戦略が奇跡的に巧く働いたのです。
日本の市民にとって、戦後の反核・反原発は自然な姿だったのではないでしょうか?
それを覆い隠す政権・権力側の戦略が巧かったのです。
古来日本では今回の旧政権自民党による馬鹿騒ぎをバケの皮が剥がれた、といいます。
[1354] [現実主義の陥穽 丸山正男
- 投稿者
- 島田陽一(仮名)
- 投稿日
- 06/17 20:49
自民党の石原幹事長は、日本における脱原発の世論をとらえて「集団ヒステリー」呼ばわりしたそうです。
震災後にこれだけ抑制の効いた行動をとり続け、海外から(慰め半分)賞賛されている国民をとらまえて、自分は安全な場所にいてこんなことを言います。
このサイトにおいても、村上春樹さんのスピーチを取り上げただけで「感情的で非現実的な脱原発論者」扱いされそうであります。
タイトルに取り上げた「現実主義の陥穽」は、有名な政治学者で筑紫さんも懇意にしていた丸山正男さんが、著書の一節を使って書かれていることであります。
要約すると
・日本人の言う「現実主義」は、常に「既成事実への屈服」である。
・既成事実を「現実」と呼ぶことで、その現実を変えようとする運動や思考は常に「非現実的」とか「観念的」のレッテルを貼られて排除される。
・しかし現実というのは日々生起生成しているものであり、自分たちの選択によって作っていくものである。
・「所与の条件」として与えられるものではなく、自分たちが主体的に作り出していくものだ。
ということになろうかと思います。
別の方は「現実主義と現状追認主義は全く違う」という言い方もしています。
改めて、村上さんのスピーチを振り返ります。村上さんは意志(WILL)の話をしていると思います。もっと強い言葉で言うと「決意」や「覚悟」と言い表したほうが良いかもしれません。
例えば、太陽光発電。エネルギーの変換効率は悪い。当然面積を必要とする。太陽が出ていないと使い物にならない。色々問題はあります。
「問題があるから慎重に」というのが「冷静で現実的な議論」なのでしょうね。
ですが、こんな日本人たちばかりだとNHKの「プロジェクトX」という番組は成立しなかったでしょうね(笑)。困難に立ち向かったところにドラマがあります。
「問題を一つ一つ解決していって、太陽光発電がモノになるようにしよう。原発による不幸な被害者を出さないために」というのが意志の一つの例です。
そういえば筑紫さんの著書でこんな話がありました。
世界一の教育大国となったフィンランド。日本から教育視察団が何組も派遣されたそうです。
彼らが帰国してから述べた感想。「人口540万の国だから出来ることだ。日本じゃ無理だ」だったそうです。
地方分権と組み合わせてやるなど、考えれば色々方法があるだろうに。わざわざフィンランドに行って言い訳を探しに行ったのかと筑紫さんはあきれていました。
「日本の教育を何とか良くしよう」という意志がないと、こういうことになります。違いを確認しただけで終わり。
「意志のあるところに道が出来る」などと言っていると楽観的でおめでたい人に見えるかも知れませんが、「意志の無いところには道が出来ない」ということはハッキリ言える。「意志の無い」状態で「冷静かつ客観的な」議論をすると、結局先に述べたような現状追認で終わってしまう可能性が大です。なので意志を打ち出すことは重要だと思います。
[1363] Re:[現実主義の陥穽 丸山正男
- 投稿者
- shimoue
- 投稿日
- 06/20 23:20
>・既成事実を「現実」と呼ぶことで、その現実を変えようとする運動や思考は
>常に「非現実的」とか「観念的」のレッテルを貼られて排除される。
現実を覆す事の出来る理論の裏付け無しに突っ走った結果が、現在の民主党政権のこのザマだと思うのですがねぇ?
>「意志の無い」状態で「冷静かつ客観的な」議論をすると、結局先に述べたような現状追認で
>終わってしまう可能性が大です。なので意志を打ち出すことは重要だと思います。
その「意思」とやらは、「本人の意思」なんでしょうかねぇ?
他人の言動に多大な影響を受けているでしょうに…
[1361] Re:村上春樹さん
- 投稿者
- 長文
- 投稿日
- 06/20 21:26
>傑作かなさん
>脱原発は感情的でしょうか?
言葉足らずでした。
脱原発が感情的という意味ではなく、感情的な脱原発論があるということです。
私も将来的には脱原発に進むべきだとは思いますが、
感情論に傾けば空回りし、確実な脱原発へは向かえないと考えています。
確かに自民党や利権側の戦略は上手かったのかもしれませんが、
それでも日本は現在原爆を持ってるわけではないですし、
日本国民がただ騙されていただけとも思いません。
>島田陽一(仮名)さん
>このサイトにおいても、村上春樹さんのスピーチを取り上げただけで「感情的で非現実的な脱原発論者」扱いされそうであります。
そんなことはないと思いますよ。
村上春樹さんのスピーチを批判して孤立してるのは私ですしw
丸山真男さんの現実主義論は全体を読んだことがないのではっきりとは意見出来ませんが、
正論となる場面もあれば、当てはまらない場面も想定できる議論であるように見受けられます。
何をもって現実追認というかもケースバイケースですしね。
「決意」や「覚悟」、あるいは意志が必要だというのは
島田陽一(仮名)さんが仰るとおりであり、私も同感です。
ただし、意志を発する方法や内容もまた大事ではないでしょうか。
村上春樹さんのスピーチを見て思ったのは、
「これは本当に強い意志があっての発言だろうか?」ということです。
原爆との絡め方といい、
「我々自身をも、糾弾しなくてはならない」という日本人への反省を求める内容といい、
「流行の」脱原発論に乗ったものにしか見えない。
特に
>我々自身をも、糾弾しなくてはならない
というのは気になる点です。
福島に対して多大なる被害をもたらした点で、恩恵を受けてきた側が
原発に対する考え方をもう一度改めなければならないのは確かです。
しかし、村上春樹さんに限らないことですが、
「反省すべきだ」とか「日本人はおかしい」とか
常に日本を卑下する態度に出ることには賛成できません。
自民党石原幹事長の「集団ヒステリー」発言は一応イタリアに対してのものですが、
その根本には脱原発世論が高まりつつある日本への皮肉があるのでしょう。
この石原さんの日本人への態度と
村上さん他が日本人を批判する態度というのは実は共通してるのではないかと思うのです。
いずれも自分たちを棚に上げ、何かの解決を目指そうという態度ではない。
では脱原発における「本当の意志」とは何か?
私は原発推進派や原発維持派をも巻き込んで脱原発への道筋を付けるという決意であると思います。
今の識者は過去や現在の批判と皮肉で終わり、
どうやって道筋を付けるのかという議論をできていない。
批判や皮肉は今まで脱原発だった人には受けがいいでしょうが、
私は支持を広げられる議論になるとは到底思えません。
これから猛暑や産業界の空洞化の問題で電力需要が叫ばれ始めるでしょう。
それを「原発推進派だ」として排除しても脱原発論が活発になるとは思えません。
そういった問題から目をそらさず、議論や話し合いの中で
「現実的な」道筋を地道に考えていくことこそ本当の脱原発なのではないでしょうか。
[1369] 集合的責任
- 投稿者
- 島田陽一(仮名)
- 投稿日
- 06/22 02:09
村上スピーチは一種の「寓話」に近いと思っています。「現実」なるものを良く知っている大人からすると「幼稚」と見なされるかもしれない彼のお話には、当然含意があるだろうと勝手に思っております。
これまで、観点を切り替えながら(その都度スレを変えながら)「村上スピーチ」の話をしてきました。
最初に
・「核の力」が元々持っている倫理的な問題
次に
・「意志の力」の重要性
最後に次の話でもしてみようかと思います。
・集合的責任
この話は、恐らく一番共感者が少ない。
福島で起きている事故の責任は誰にあるのか。東電?政府?誰か他の人?
村上さんの答えは「我々日本人」です。
広島と長崎とで、放射能の怖さを身をもって体験したはずの「我々日本人」です。「過ちは繰り返さない」と誓ったはずの…。
と、情緒的な書き方をしましたが、言いたいことは以下のことです。
多くの日本人にとって原爆の話は、被害者も赤の他人、加害者も赤の他人であって、自分には直接関係のないことです。
それは今回の福島の話も当てはまる。それでも首都圏に近い分、騒ぎにはなっていますが、これが遠くの出来事だったら、関心は薄かったと思われます。
この「当事者意識」言い換えるとある種の「責任感」の無さが次の過ちにつながる。「東電が下手を打って福島の人が不運にも被害に遭った」という認識が蔓延すると、恐らく同じような事故がまた起きる。
こういった意識の持ち主たちは、対応策を考えるのは政府の仕事だし、うまくいかなかったときの責任も政府なり東電が負う話と考える。失敗すれば批判して終わり。待ちの姿勢。
「集合的な責任」は「連帯責任」ともよく言われ、日本人の古い体質として語感自体が否定されがちですが、例えば日本の要人が繰り返す戦争責任に関する失言をとってみても、いかに「連帯責任」を感じていないか、過去の出来事を自分なりに「消化」していないかの現れだと思っております。
ちなみに、ハーバード大学のサンデル教授の説に触れたことのある方は、関連を感じることが出来るかも知れません。
[1381] Re:村上春樹さん
- 投稿者
- 長文
- 投稿日
- 06/25 01:02
> 島田陽一(仮名)さん
>集合的責任
サンデル教授の番組でやっていましたね。
大変興味深いテーマだと思います。
あるコミュニティに属する人間がどこまで責任を負うかというのは、
民主主義の大きな議題の一つでしょう。
ただ、実際問題どういう場合に適用されるかとなると非常に難しい問題でもあると思います。
まず第一コミュニティに対して責任があるのかないのか。
責任が生じているとして、その範囲までどこまでなのか?
サンデル教授の番組でも議題になっていましたが、
自分達の過去の歴史まで全て責任を負わないといけないのか?
責任の対象の範囲はどこまでなのか?
国家の行為全てに責任を負わないといけないのか?
そもそも責任の対象を決めるは誰なのか?恣意的な選択にならないか?
対象が決まったとしても責任の果たし方、手段についても考える必要があるでしょう。
原発の問題に関して言えば、この「責任の果たし方」という点で
私と、村上さんや 島田陽一(仮名)さんとでは見解が違うということでしょうね。
コミュニティの「責任」という問題は、非常に意義ある議論であると同時に
非常に危険な議論にもなり得ることも付け加えておきたいと思います。
「国民に責任があるから、こういう意思を持たなければならない」という議論は
ともすれば国民全体をそれこそ誤った道に連れて行きかねないかなとも感じます。
(原発の問題ではそんなことにはならないと思いますが)
また、これは上の発言の繰り返しになりますが、
連帯責任を強調し、「お前は間違ってたんだよ」と主張するとして
どの程度支持が得られるだろうか?という点も気になります。
特に今回の原発の問題では、
日本の今後のエネルギー政策を考えなければならないでしょう。
これは原発反対派であれ推進派であれ否定する人は居ないと思います。
このときにイデオロギー論争のような水掛け論や責任論を行っても
議論が前に進まないのではないか、というのが私の考えです。
ここ数年「日本が原発を輸出する」というニュースが盛んに流れていましたが、
その時に、原発輸出をはっきり否定していた識者を私は知りません。
(私が目にしてなかっただけだとは思いますけど)
また、脱原発の急先鋒になっているソフトバンクの孫社長が
韓国の原発を評価したという話も目にしました。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0621&f=national_0621_171.shtml
果たして「脱原発」というのはなんなのか?
その点についての議論も必要な気がしています。
[1383] Re[2]:村上春樹さん
- 投稿者
- 長文
- 投稿日
- 06/25 02:10
連続投稿すみません。
孫社長の話ですが、ニュースソースを見て
驚きのあまり脊髄反射で載せてしまいましたが
調べてみると「韓国の原発政策には干渉しない」という内容を
韓国メディアが曲げて「韓国の原発を評価した」と伝えたようです。
(これも確定的な情報じゃありませんので間違っているかもしれません)
不確かな情報を載せてしまい申し訳ありませんでした。
ただ、いずれにせよ
「脱原発」というのは外国の原発政策にまで口を出すことまで含むのか?
という議論の端緒にはなるニュースであると思います。