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No.1445に関するツリー

[1445] 「覚悟はあるのか」

投稿者
島田陽一(仮名)さんより
投稿日
2011/08/08 00:53

今年も8月6日が来ました。
 NHKの特別番組「ヒバクシャからの手紙」を見ています。
 広島・長崎の人たちにとっては、もはや耳たこの事実ですが、関心の低い多くの日本人にとっては恐らくショッキングな話がつづられています。
 最近でも、1999年に起きたJOCの事故。テレビの報道では決して語られることのない、放射線による悲惨な亡くなり方をしています。
 Googleの画像検索で見れば分かりますが、こういったことを一般の視聴者から隠すことが果たして良いことなのかという疑問が湧いてきます。
 単純に「電気が足りないので原子力を捨てられない」という人たちは、核の恐怖をご存知の上で言っているのだろうか?
 「覚悟はあるのか」
 この言葉は、何も脱原発派だけに向けられるべき言葉ではありません。

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[1446] Re:「覚悟はあるのか」

投稿者
イソップ
投稿日
08/09 11:59

おかげさまで今年の大文字はいっそう明るく燃えるでしょう

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[1448] Re:「覚悟はあるのか」

投稿者
イソップ
投稿日
08/10 12:26

そうですね。
京都の方々は素晴らしい御覚悟を示されました。
岩手の薪は一本たりとも都へ持ち込むべからずと。
勿論米も肉も野菜もそうなのだろうと拝察します。

むやみに増幅された被爆恐怖は程ほどに願いたい。

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[1450] Re[2]:「覚悟はあるのか」

投稿者
島田陽一(仮名)
投稿日
08/11 23:39

 放射線の測定もせずに、ただの薪を怖がる五山の送り火の人たちも
 「福島から来た」と言っただけで、その人からの献血を拒否した献血ルームの人たちも
 逆に放射能の恐怖を知らずに「やっぱり原発」と言っている人たちも
 私から見ると以下の点で同根なんです。

 「無知」「無関心」「他人事」

 私としては恐怖を過剰にあおるつもりはありません。
 ただ、事実を過不足なく知ってほしい。
 そして、自分や家族や親戚がその「当事者」になる可能性があるという覚悟を持ってほしいだけです。

 その上で自分なりの「態度」を決してほしい。

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[1452] Re[3]:「覚悟はあるのか」

投稿者
イソップ
投稿日
08/13 22:04

無関心、他人事については若干疑問がありますが、我々が無知だと言うことであれば全く同感です。

放射能被曝については専門家と称される方々が様々ご意見を述べられていますが、結局のところよく判らないから近づかない方が良いとしか仰っていない様に見受けられます。知見ある方々のご意見なので拝聴は致しておりますが納得してはおりません。
事実とは一体何なのでしょう。

そういう中で一部半可通の方々がアジテーションに近い表現をお使いになることに反感を抱きます。勿論貴方のことではありません。

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[1451] Re[2]:「覚悟はあるのか」

投稿者
傑作かな
投稿日
08/13 08:43

そう、京都人は何事にも先頭にたって「解決」するのです。あるのかないのか燻っていた「風評被害」を白日の下さらし「全国民に警鐘」を鳴らさせていただきました。
私は京都府にすんでいますが、これほど京都人として恥ずかしく思ったことはなかった。

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[1453] Re:「覚悟はあるのか」

投稿者
長文
投稿日
08/14 21:53

広島でも長崎でも平和宣言中で原発について触れていましたが
いずれも冷静で、抑制的に問題が捉えられていて感心しました。
長崎では、原発についてどう盛り込むかについて議論がなされたらしいですが
核で関連しているとは言え、原発事故の当事者ではない立場の中で
適切な文章であったとおもいます。

両都市とも、原爆被害者の中に原発関係者がいることや
或いは電力利権との関わりがあっての宣言だったかもしれませんが
「核」という共通項ゆえ触れねばならない状況にあって
しかし、原爆と原発の違いという面も考慮されていて
見事に対応されていたと思いました。

私は前から述べているように、
原爆と原発をない交ぜにして論じることに拒否感があります。
今年の平和宣言に対するマスコミの扱いでも
原発問題の延長線上での長崎広島という風に見えるものもあり、
原爆に対する無関心が、原発と絡めることでより進むのではないかと危惧しています。

放射能による深刻な被害という面では原爆と原発は共通します。
その為、マスコミの中には「核との共存は不可能」というテーマで
両者を結びつけ論じようとするものもあります。
しかし、反原爆の立場は共存出来るできない以前の問題であったはず。
原爆と原発という作られた目的も運用も違う性質を持った物同士を
安易に結びつけるのは無理があります。

また海外に原爆の被害と悲惨さを主張する中で、
原発と絡めれば統一した被害のイメージが主張できず、
原爆の悲惨さを伝えるにつき、不要な混乱を招くような気がしてなりません。

加えて、原爆は他の国に対しても反原爆の立場を主張し、一貫した姿勢が取れますが、
原発も同じく原発所有国に対しても反原発を強制していくのかどうか、
他の国に対する姿勢の面でも大きな違いがあるのではないかと思います。

私は間違いなくこの国は脱原発か減原発へと進んでいくものと思いますし、
少なくとも原発増設はほぼ不可能になったと思っています。
しっかりとした声を上げているわけではないですが、日本国民も実態を少しずつ知る中で
ある程度の合意形成を始めているのではないでしょうか。
そんな中で、無理に原爆と結びつけイデオロギー化させたり、
行動しないから国が滅ぶとナルシスティックに大げさに嘆いて見せたり
そのような必要は無いと思っています。

原発の完全撤去はすぐには無理なのですから、関連する議論を続け意見を募り、
政治家にも行動を求めるなど地道な合意形成を目指すことこそ、本当の覚悟であると私は思っています。

京都の五山の送り火の問題ですが、
島田陽一(仮名)さんが仰っているように、根底にあるのは知らないことから発生する恐怖ですね。
無用な煽りは無用な恐怖と混乱を生むだけです。
まずは政府東電、識者に知りうる限りの情報を出させ、我々が知ることが大切だと思います。
福島の児童の甲状腺被曝についてももっと情報を出していくべきでしょう。
どう振舞うかの覚悟も、どう議論していくかの方針も正確な情報から出てくるに違いありませんから。

五山の送り火問題は京都市や京都の方が悪いというわけではなく、
情報や基準を出し惜しみしている政府に責任があると思っています。
この件で東北の方と京都の方が険悪になる事ほど寂しいことはないでしょうね。

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[1455] Re[2]:「覚悟はあるのか」

投稿者
島田陽一(仮名)
投稿日
08/15 23:39

 この話題を提起したとき、「長文さんが来そうだな」ということは予想しておりました。
 理由は「村上春樹さん」のスレを振り返ってもらえれば、容易に想像がつきますが、「原爆と原発と関連づける」ということに対して相当な反感を持っておられる。
 ことさら、この話題に対しては必ず反論を書いてくることに、正直違和感を覚えます。

 そもそも、「原爆と原発をない交ぜにして論じる」というのはどういうことでしょうか?これが一番の問題ですね。
 よくわからないので、ためしに原爆と原発をない交ぜにして論じてる例を見せて貰えませんか?(リンクなどで)

 ちなみに、私自身、両者の区別はついているつもりですし、村上春樹さんのスピーチにしても混同しているとは思いません。
 両者の間には、共通点もあれば異なる点もあって、問題にしているのはその共通点というだけの話です。

〉放射能による深刻な被害という面では原爆と原発は共通します。

 まさにその通りです。

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[1456] Re[3]:「覚悟はあるのか」

投稿者
長文
投稿日
08/16 20:07

>島田陽一(仮名)さん
>この話題を提起したとき、「長文さんが来そうだな」ということは予想しておりました。
私自身も流石にしつこ過ぎたかと反省してますw
島田陽一(仮名)さんに絡んでるような感じになってますもんね。すみません。
上で私が言ってる内容も前の繰り返しですしね・・・。

ただ、やはり原発と原爆には境界を引きながら論じるべきという点は変わりません。
勿論、島田陽一(仮名)さんにも同意していただいたように
放射能被害については共通して論じられる面があると思いますし、
原爆の被害と経過から治療や保障を論じることも出来るでしょう。

私が納得できないのは、実際の被害に対しての共通項を超えて
何か精神論にまで高めて論じようとしている人たちがいることです。
この点、私は島田陽一(仮名)さんが混同していたとは思いませんが、
村上春樹さんに関しては混同していたと今でも思っています。

例えば、二度の原爆被害がありながら原発に関わったのは過ちだったといったような論調です。
原爆被害者、或いは二世の方で原発に関わった方がいるとニュースや新聞で見ました。
ニュースや新聞は彼らの「原爆に関係したのに原発に関わったのは誤りだった」という
反省の弁を引き出していましたが、どうなんでしょうか。
何故彼らが反省しなければならないのか、私には分からない。
或いは、彼らを原発を推進するアメリカに騙されたとか、時の日本政府や電力会社に騙されたと
被害者として扱うことはできるかもしれません。
でも、彼らが関わった原発が作った電力が我々の生活を支えていたのもまた事実です。
彼らは立派に仕事をこなし、国の発展と国民の生活に寄与したのであって、
反省する必要もないし、騙されていたと無理に擁護する必要もない。
過去の仕事には胸を張り、「でもこれからの原発は縮小せざるを得ないよね」と
将来に向けて考えれば済むはずなんです。
(勿論、情報を隠し多数の被害をもたらした国と電力会社は反省すべきですが)

言いたいことが二転三転しましたが、要するに過去と絡めて、且つイデオロギーと絡めて論じれば、
上のような捻じれが発生してしまうと危惧しているわけです。
反省すべきは危険を放置してきた政府や電力会社、関係機関であって、
それを「国民全体が反省すべきだ」というのは私は違うと思っています。
四大公害病や薬害エイズ問題の時に国民責任論があったでしょうか?
原発の時だけ、原爆という過去と結び付け、
国民全体の責任という風潮を持ち出すことに違和感を覚えているのです。

当たり前ですが、原爆の被害にあわれた方が自発的に脱原発反原発を主張され行動されることに
異論を唱えるものでもありません。
ただ、原爆被害にあわれた方だからと言って脱原発反原発を主張しなければならないとも思いません。

まるで島田陽一(仮名)に絡んでるかのようで
誤解があるかもしれませんので最後に弁解させていただくと、
島田陽一(仮名)さんのご意見に突っかかっているわけでも反論しているわけでもなく、
島田陽一(仮名)さんのテーマを起点として勝手な意見を述べていると思ってください。
お願いします。

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[1457] Re:「覚悟はあるのか」

投稿者
緩急自在
投稿日
08/17 21:50

今回の地震、原発事故を契機に、
一体何を、どこまで信じればいいのかわからないというのが正直な感想です。
政府の言っていることは正しいのか?
専門家は信用できるのか?
マスコミの情報は確かか?

こうした状況では、
無知、無関心以前に恐怖心や不信感が先行してしまう。
「想定外」とよくいわれているように、
誰も正確なことがいえないのかもしれません。
特に科学者たちの信頼度が急落したところに、
京都のような混乱が起きたのだと思います。

イデオロギーの話も出ていますが、
それを利用したのは、
むしろ原発を推進する側だったのではないでしょうか?
「反対派=左翼」のレッテル貼ったのは推進派の政治家たちでしょう。
かりに、今回でもイデオロギーが持ち出されることがあるとすれば、
それは原発にしがみつきたい側だと勝手に予測します。

核の平和利用といわれ続けましたが、
今回の事故によって、
原爆で一度経験した放射能の恐ろしさ、リスクの大きさを再認識させられたわけです。
今は国民全体で反省を促されている、責任論が噴出しているというより、
今後のこの国のありようについて、
全体で考えることを求められていると思います。

田中正造の日記に、
「真の文明は山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」
という言葉があります。
これだけ大きな震災や原発事故を目の当たりにすると、
あまり軽々に物をいうこと自体に、ばつの悪さを感じますが、
個人的に、今最も心に響く言葉の一つであります。

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