「日刊争論」では
日々のニュースに対する「ご意見」を募集しています
WEB多事争論編集委員が立てたトピックに、
あなたの「異論」「反論」、お待ちしています
No.1496に関するツリー
[1496] カダフィの死
- 投稿者
- 編集委員
- 投稿日
- 2011/10/23 23:42
カダフィ大佐の死後、リビアから、
歓喜する市民の映像と共に、
大佐の死の一報に対して
「これで自由にものを言える」という
安堵の表情を浮かべる市民の様子も伝えられます。
かつては、市民の圧倒的な支持で、
無血クーデターを成功させ、
リビアに君臨し続けたカダフィ氏。
その独裁者の最期は
逆に市民の声により
引きずり降ろされ
殺害されるという
無様な結末に。
数十年後、
かつての革命の指導者は
世界の歴史家に
そして、
自由にものが言えるようになる?リビア市民に
どのように評されることに
なるのだろうか...。
[1497] Re:カダフィの死
- 投稿者
- 金平茂紀
- 投稿日
- 10/27 22:15
カダフィの死(殺害)という出来事があっても、
なあんにも反応しない「日刊争論」って、
ヤバいと思いますけど。
つまり、
Platform=ワイワイの場の機能を果たしていない。
考えるべきこと、語るべきことが多々あるけれど
所詮は「対岸の火事」なのですね。
リビアなんて関係ないよ、と。
日本の夕方ニュースは
ニューハーフの遺体遺棄事件の方が
はるかに重要事なのです。
さて、
日本の主要メディアの多くが
「アラブの春」というコンテクストで、
カダフィの死を位置づけていたことには
僕は大いに疑義があります。
チュニジアやエジプトで起きた民衆蜂起と
リビアのカダフィ体制崩壊は、質が異なっていると
思います。つまりリビアは内戦だったということ。
そのなかで決定的に重要なのは
NATOによる軍事介入です。
この先に、シリアやイランという国名が
囁かれているのには理由があります。
―――「反米独裁」。
チュニジアのベンアリや
エジプトのムバラクが
欧米からの支持を得ていたという事実、
イスラエルを認知していたという事実が
「アラブの春」のストーリーによって
隠されてしまっていないか?
そんなことを語る虚しさを湯豆腐とともに
飲み込んでしまおうっ、と。
[1499] Re[2]:カダフィの死
- 投稿者
- 戸田政考
- 投稿日
- 11/03 01:36
カダフィの死からちょっと経つけど、
やっぱり語らずにはいられなかった。
多くの人は「対岸の火事」どころか無関心だろうけど、
私はそうじゃなかったから。
私がまず感じたのは、カダフィの死亡がまるでハッピーエンド
かのような世論の危うさ。
どんな極悪非道な独裁者であろうと、人の死に対して
人々が喜び湧く光景やそんな社会は少しさみしくないか。
また、武力による独裁者への裁き、すなわち力で成し遂げられた
民主化運動の結末を、果たしてどこまで民主化と呼べるのだろうか。
そしてこれをわたしたちの社会が「民主化」と呼ぶことは
どのような意味をもつのか。
リビアの今後に期待するとともに、あらためて「民主主義とは何か?」
ということに思いが及んだ。
戦後、日本が民主化の道を歩んでこれた背景には、
あの戦争によって犠牲となった莫大な数の尊い命がある。
あまりにも多くの大切なものと引き換えに得た民主主義であるからこそ、
このような時代の節目にはきちんと考えてみたい。
民主主義の基本は、民意を代表する議会で論じあうことで
さまざまな問題を解決したり社会の在り方を決めたりすることであり、
それは武力や独裁とは全く違うものであるはずだ。
という前提をふまえると、兵士らにもみくちゃにされ血だらけで
最後を迎えたカダフィの死を、民主化への第一歩として
拍手喝采している人々やメディアは、やはりちょっとさみしい。
これからのリビアは暴力でなく、あらゆることを論や言葉の力で
解決していく国になってほしい。
そしてメディアにはただカダフィ大佐の死を伝えるだけでなく、
一つの流れに傾きやすい私たちの社会に別の角度から異論を
打ち出すような、そんな多様な視点を投げかけてほしい。
戦後最高の円高よりも報じること、論じることはあるはずだけど。
[1498] Re:カダフィの死
- 投稿者
- 島田陽一(仮名)
- 投稿日
- 10/30 22:25
小規模の講演会などでは、最後の方で質疑応答の時間が設けられていることがあります。
「質問はありませんか?」などと司会者に問いかけられて、勇気を振り絞って手を挙げたは良いものの、結局「○○についてどう思いますか?」などという漠然とした質問しかできず、「やっぱり質問するんじゃなかった」と後悔しながら席に着くと、「いや、今のは大変良い質問だった」と質問の内容とは直接関係は無いが大変有益な回答をしてくれて、質問者に恥をかかせないように振る舞ってくれる力量のある人が世の中にはいるものです。
この日刊争論で編集委員の方が問いかける質問も比較的漠然としたものが多く、私も出来るだけ「力量のある人」のように振る舞いたいのですが、実際にはそうではないために「何を書いて良いか分からなくなる」ときがあります。このカダフィのテーマについても同じことが言えます。もともと筑紫氏の多事争論も「テレビコラム」であってご当人の主張や考えを金平氏のようにできれば添えてほしいこともありますが、皆様ご多忙の方々だと思われますので、無いものねだりなのかも知れません。
リビアの「革命」について言えば、イスラム教圏の国々では世俗法もしくは権力者の振る舞いがイスラム法と食い違うとき、イスラム法に戻ろうとする圧力(原理主義)がかかりがちなのだろうか と考えた次第です。ちなみにキリスト教はその歴史のなかで世俗の権力は国王が、霊的な権力は協会が握るという二王国論、いわば政教分離の原則が作られてきたわけで、その辺が大きな違いであり、互いに理解しがたいという一つの側面ではないかと思われます。
[1510] Re:カダフィの死
- 投稿者
- 木村
- 投稿日
- 11/25 03:40
まあ何に関しても経年劣化はあるわけで、
時代によって求められるニーズも変わってきます。
それに対応できないし、するつもりもなければ、交代を求められるだけの話で
早い話、私がいつも言ってる”世代交代”していないために起こった事象だと思うんですよ。
まあどこの国にもどこの業界にも、世代交代をしようとしない年寄りはいるもので、
つい最近は、業界にはいろうとしている会社の名前すら満足に言えないくせに、業界のトップに未だにしがみつくという醜態を晒しながら、未だに偉そうにモノをのたまっている人間もいたわけで・・・
そんな人間も暖かく憐憫の情をもって見守りつつ、無視を決め込めばいいものを、がたがた騒ぐ周りの人もいるわけです。金と権力を持っているからなんでしょうが、そういう周りしかいないというのも問題です。
少なくてもトップまで上り詰めた、もしくは上り詰めようとしている人間は次の世代の人間の育成をしないといけないと思うんですよ。
当然、どんなこともレイヤがあり、いろんな視点がありますので、カダフィという偶像を使ったスターシステムが崩れたというのは間違いなくあると思います。
次のスターを作らなかったのか、作れなかったのか、また作れなかったのならば、誰が、もしくはどのような原因で、作れなかったのか、わからないことが多すぎるので、なんとも言えません。
実際のところ様々な力が作用したのでしょうが、当事者は、リビアの国民です。当然、カダフィも含めて。
結局、残念ながら、このような死者すら出した大騒ぎで、次の指導者すら決まらないような”世代交代”をしてしまったというふうに私には見えてしまいます。
現実に独裁国家でも、世代交代をしようとしている国もありますし、国の指導者が一年毎に交代している国もあるなかで、同じ人間が指導者で居続けてしまったというのは悲劇でしかありません。
アメリカがタチが悪いのは今に始まったことではありませんし、その親とも言えるヨーロッパのタチの悪さは、イスラエル建国の空手形を誰が出したかの例を出さずとも周知の事実です。
もちろんそのタチが悪いということをほっといていいという訳でもありませんが、ほかの国の性根を入れ替えさせることより、それに対応できるような国に自分の国を改革したほうがなんぼかやりやすいはずなんですよね。
ちょうど、ドリフの番組をケーブルTVで見る機会があったのですが、70年代から90年代まで続いていただけあって、それなりに面白い。
しかし、最後の方は、色々と新しい試みをしようとしていましたが、結局昔の焼き直しでしかなく、時代に置いて行かれているようでした。
それに対し、最近の明石家さんまという芸人は、50代にも関わらず若者に流行っているというワンピースをよんだり、なんとか自分自身を時代に合うようにバージョンアップをしつつ、
雨上がり決死隊や、くりーむしちゅーなどを関西ローカルの自分の番組に呼び、育てているように思います。
ひとりの英雄をいつまでももてはやすより、その人のやりたいことやら、姿勢やらをいかに次代に引き継ぐかってことを大切にすべきだとおもうんですよねぇ・・・
まあ次代が重要な話がありますといって、愚痴を言うだけっていう人間だと、不安になるのもわかるんですが・・・
ちゃんと育てろよって気もしますが・・・