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[76] アリマキ総理

投稿者
米田浩一郎
投稿日
2009/4/11 23:47

 麻生政権の支持率が上向いてきた。100年に1度の経済危機に呑み込まれ、沈みゆくばかりと思われたこの総理のもとでの総選挙が、当然のように取り沙汰されるようになってきた。麻生首相は、こと権力維持の手腕に関しては、存外賢明だと思わざるを得ない。
 北朝鮮からの“ミサイル”飛来では、情報開示は必要最低減に留めるという国防のセオリーから踏みだし、誤報まで出すほどの力の入れようで「有事」を大きく演出した。いま結果を見れば、過剰反応だと批判する声もさほど拡がらず、むしろ毅然とした対応を評価する声のほうが大きい。こと北朝鮮問題となれば挙国一致となり異論が許され難い今の日本の空気を見切った対応だった。
 
 そして今度は、15兆円もの経済対策である。こちらも“有事”だ。「今はまさに、経済有事と言うべき時代」と麻生首相は言う。当初10兆円規模だったはずの補正予算は、党内議論を続けるなかで15兆円、GDP比3%という未曾有の規模にまで膨らんだ。こういう空気を見切った気前のいい大盤振る舞いこそが、この政権がなお存続する最大の理由ではないのか。
 そもそも就任直後に行う筈だった衆院解散を先送りにした麻生政権が、最低水準の支持率と度重なる失態にも拘わらず、党内から引き摺り下ろされずにここまで延命出来た理由のひとつは、「100年に一度の経済危機」を殺し文句に、財政支出を増やす方向へ政策の舵を切ったことにあると、私は思う。師走の街には失業の嵐が吹き荒れ、小泉政権時代の「改革」の負の側面ばかりが浮きたって見えた。麻生首相が時計の針を多少なり戻そうとすることを、正面から非難したのは当の小泉元総理くらいで、それもかつてのような支持を得ることはなかった。郵政民営化にも道路特定財源の一般財源化にもかつてのような熱はなく、誰もが経済“有事”の前に沈黙したのである。そんななか麻生政権が打ち出した「3段ロケット」の景気対策は、枯れかけた旧来型の利権水脈に再び湿り気を呼び戻すものだったのだ。
 思い出して欲しい。総理を支えてきたのは誰であったかを。ここ半年、総理が失態を演じる度に党内からはテレビでお馴染みの著名議員らを中心に激しい非難の声があがった。「麻生下ろし」という言葉も度々飛び交ったが、しかしそれはいつも程なく収束した。抑えてまわったのは自民党各派の領袖たちである。そしてその背後には“その他大勢”の与党議員たちの存在があったのだ。彼らの大半は、族議員として培った、或いは自らの地元に張りめぐらせた、利権配分のネットワークを存在基盤にしている旧来型の政治家たちであった。言ってみれば、小泉元総理が“ぶっ壊せなかった”自民党の深い宿根こそが麻生政権を支えてきたのだ。 
 たしかに、麻生は選挙の顔にはならないかも知れない。しかし最強の顔だった小泉首相に支持基盤が台無しにされたことも確かだ。次の選挙が厳しいのは誰が総理であっても変わらないのなら、一度民主党に政権を渡すほかないのなら、いっそとことん我田引水。「100年に1度の危機」の大合唱に加わり、この際引っ張れるだけのカネを自分の領分に引っ張ってやれ・・・。邪推すれば、そんな思惑も働いたのではないか。

 これを見て、私はアリマキとアリの関係を思い出す。麻生首相ことアリマキは、彼自身は動く意思の乏しい、無防備な弱い虫である。しかしアリマキはひたすら木々の汁を吸い、それを肛門から蜜として分泌する。そこに蟻たちが群がる。蟻たちは労せずして甘い蜜の配分に預かるかわりに、弱いアリマキを守り、いわば飼育するのだ。あるいは、アリマキは蟻たちを用心棒として傭うのだ。じっさい、この政権は何を掲げるでもなく、何を成し遂げようとするでもなかった。出来なかった。けれど、カネだけは気前よく使ってくれる。「100年に1度の危機」と念仏宜しく唱えれば、税金の無駄遣いをやめろなんて言う声はかき消されてしまうのだ。私たち一般国民はこの場合どういう立場にいるかというと、定額給付金も貰えるし高速道路も1000円になったし、一見甘い蜜のお相伴にあずかる蟻たちの最後尾くらいにいるようにも思える。しかし本来の私たちの役柄は、この場合、ひたすら汁を吸わ続け、ことによると枯死するかも知れない哀れな立木の側であることを忘れてはいけない。なにもお金持ちの麻生総理が私財をなげうって大盤振る舞いしてくれている訳ではないのだ。彼の尊大な言いぶりや顔つきを見てるとそんな錯覚さえしそうだが、使われているのは私たちの血の一滴、税金であることは言うまでもない。
 
 ここで、もういちど今般の「15兆円補正」の話に戻ろう。規模は大きいが、中身を具体に見ると直接生活者の手元に還ってくる部分は案外小さい。目玉として看板に大書されている「子供と家族応援手当」にしても実際は就学前3年間に限られるなど、家庭向けの蛇口は存外絞られているのだ。エコカーやエコ家電などは消費者目線にも見えるが、そもそも経済界の要望を大きく反映したものだし、地方に振り向けられた金の多くが先生方それぞれの地元建設業界、地元商工会の面々を潤すものになる。そしてこれまた目玉とされる贈与税減税にしても、子や孫に家を買ってやれる階層を限定的に利するものだ。これらはどういうことかと言えば、旧来からの与党の支持基盤に手厚く税金が還元されているということなのだ。決して見境のないバラ撒き政策などではなく、きっちりとお得意様に重心をおいた税の再配分ではないだろうか。
 もちろん、政党政治であるからして、自らの支持層に向けた政策を実現するのは当然といえば当然である。しかし現政権がこれらの策をどういう建て前で推し進めているかは問わねばならない。今回の補正予算についてある閣僚は「追加経済対策は全国民共通の苦境から政治の指導力でそれを脱するもので、政争の具にすべきでない」と語っている。まさに国難から脱するための政策なのだから議論の必要はない、政治の指導力に任せなさい、と言うわけだ。しかし、集めた税金をどう再配分するかこそ政治の最大の眼目である。しかも赤字国債で将来の増税を避け難くする巨額の財政出動だ。これが本当に“全国民が等しく苦境から抜け出すため”の唯一無二の策と言えるのか、もっと他の考え方はないのか、国民の選択肢が担保されても良いはずだ。実際、スタンバイ状態の民主党にも、相当規模の財政出動を伴う経済政策のプランがある。ほかの野党にも、それぞれの再配分のビジョンがある。納税者であるひとりびとりに、税金の使いかたについて、お上まかせではなく、その細部にわたって検討してもらいたい。もし今後「経済有事」の大合唱のなか、この補正予算の中身について十分な審議も行われないような事態になれば、与野党とも血税を預かる資格が疑われるだろう。

政治部 米田浩一郎

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