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[90] 「道標のない分かれ道」

投稿者
米田浩一郎
投稿日
08/19 09:18

待ちに待った、というべきか。ようやく総選挙が公示された。解散が取り沙汰されたのは去年の秋だから、季節もひとめぐりしようとしている。だが、待ち望んだ政権選択への有権者の熱は、既にいっときのピークを越えてしまったようにも感じられる。いよいよその時が近づいて腰が引けてきたのか、それとも、期待感よりその先の落胆を先取りして、はやくも気持ちが冷えてしまったのか・・・。
一方で、ひとたび見限ったものを再び拾い上げる気持ちも起こらないものなのか、揺り戻しもそれほど大きな流れにはなりそうない。大勢はなお、与党政権にとって厳しいものであるようだ。
そして、歴史の分水嶺とまで喧伝される選挙戦がはじまっても、主役たる有権者ひとりびとりの、何かを選び取るという強い意思は、いまひとつ鮮明に浮かび上がってこない。街の空気はなお、つかみどころなく淀んでいるように見える。

思えば、相次ぐ政権投げ出しの果て登場した選挙の洗礼を受けていない3人目の総理は、多くの国民からその資質を問われる事態に及んでも、なお民の声に耳を傾けることなく「政局より政策」と繰り返してきた。解散権が総理に委ねられているにしても、国民の多くが早期の主権行使を望んでいたことは、世論調査等からも明らかで、それを封じこめられたことへの苛立ちは、昨年末の時点でも既に沸点に達していたと言えるだろう。・・・もういい加減うんざりだ、ひとつ自民党にお灸をすえる意味でも一度民主党にやらせてみるか・・・。これが、大方の認める目下の世間の空気ではないか。ここでは、そんな意識をもうひと皮剥いてみて、政治をもう少し身に迫った問題として捉えたときに、どんな風景が見えてくるのかを考えてみたい。

これまで、保守政権支持者の多くは、それらの政党が必ずしも積極的支持に値しないと思う場合でも、生活の現状が改善されるよりは、生活の現状が損なわれることを怖れること多であったため、支持を与え続けてきた面があるだろう。
けれど、世界経済の遷移のなかで、日本が国力の衰亡期に入り、それが今後一定の歴史的期間続くことが避け難くみえる今、現に生活が損なわれてしまった、もしくは近い将来に損なわれるだろうと考える人たち、つまり端的に言えば現状維持では生きてゆかれぬと考える者が多となるに至り、これが目に見える雪崩的な雪崩的な自民党離れにつながったのではないか 。じっとしていたら最早生活出来ないから、動くほかないと。
しかし、そのように「自民党時代」のふるき良き日本を諦めた人たちの多くは、ではどこに行けば良いのか、未だ思いを定められずにいるように見える。

こうした流動化は、少し遡って小泉政権から引き続いて起こっている事態だ。彼は「右肩あがりの日本」が終焉を迎え、国民の多くがこれまでの政治経済の運行システムの機能不全を肌に感じはじめるなか、既存制度の組み替え、即ち「改革」の旗を立ち上げた。彼が「自民党をぶっ壊す」と唱えたのは必然だ。小泉内閣は保守政権でありながらも「自民党50年」のこれまでとは決別する姿勢を訴えたからこそ、これで衰亡期を乗り切れるのではと期待した人々から圧倒的な支持を得たのだろう。しかしその改革はなかば失敗に終わった。既存秩序の解体過程で鉈の役割を果たす市場原理も、特権的かつ恣意的に行使されたため、合理性を欠いた奇形的な国富の再配分が先行した。ためにこの改革は国民の支持を失い失速、頓挫したと言って良いだろう。

その後、安倍・福田と続いた自民党政権は、先の「小泉改革」の非合理的な面が相次ぎ露呈する中、無策な目先変えとしてイデオロギー色の強い政策に力を注いだり、一方で構造改革については足踏みないしその骨抜き作業に終始した。この間に国力の衰亡に歯止めがかかることはなく、低所得者層を中心に生活困難者が多数出現する事態にまで至った。
ついで登場した麻生政権は、とうとう時計の針を逆にまわすと言いだした。「行き過ぎた市場原理との決別」を明言し、昔と同じやり方で同じ夢が見られるとばかり、巨額の景気対策を打ち出して国費を大盤振る舞いした。しかし、それら旧来型の再配分手法は、偏在する既得権者を潤すことはあっても、生活困窮の現場に十分な血流を届けることが出来ただろうか。むしろ、麻生が史上最大規模と胸を張ったぶん、生活実感との乖離が際だつ結果となり、景気回復最優先を標榜したにもかかわらず、政権への支持は伸びなかったのではないか。

こうしたなか、今なお受けのいい「改革」のスローガンに「霞ヶ関解体」がある。
橋下徹や渡辺喜美、そして民主党もこれを大きく訴えるが、あの小泉改革といったい何が違うのだろうか。
今、機能不全に陥っているこの国の資源再配分メカニズムは、霞ヶ関の中央官庁と与党の族議員が中心となって絵図を描き、その下に連なる膨大な政府関連法人などを通じて分配が行われてきたものだ。批判者は、再配分の過程に複雑かつ巨大な既得権益のネットワークが張りめぐらされているために、予算を執行しても、当該政策の本来の対象に到達する前に、大半が霧消してしまう極めて能率の悪いものになってしまったと指摘する。こうした国費の「ムダづかい」は、予算消化の道路工事渋滞に付き合わされている都市生活者も、食料自給を叫ぶ一方で進められる減反政策を見てきた農村在住者も、生活のそこここで実感しはじめている。

政治家は、こうした「ムダづかい」の戦犯は霞ヶ関の高級官僚だと声を荒らげるが、実態は一部有権者に既得権益を保障することで票田として束ねてきた政治家の責任でもある。しかし、いまや多くの有権者は、自分はそうした既得権の外に置かれていること知っており、納めた税金が偏った回路で還流されるために、負担に相応する見返りがないことも感じている。かつて小泉が敵視した「郵政一家」は典型的な既得権益集団だったが、多くの国民はそこから排除されていると感じていたからこそ、小泉によるその解体政策を支持したのだ。

いま、民主党の掲げる多分に直接還付的な経済政策・・・「子ども手当」や「農家戸別所得保障」「高速道路無料化」・・・をマスコミも与党もバラマキと批判する。
しかし、民主党がこうした施策を「有権者に受ける」と読んでマニフェストに掲げているのは何故か?皮肉にも、国民の多くが政治家も霞ヶ関も信用していないことを知っているからだ。誰もが彼らに自分のカネを預けても、大半をムダづかいされるだけだと知っている。だったら、余分なことをせず還してもらうのがいちばん「賢い(wise)」つかい方だと言うわけだ。

このように言うと、国民の多くが「小さな政府」を志向しているように聞こえるが、必ずしもそうではない。いまの仕組みのままでは、いかに「大きな政府」を作ろうとも、十分に国民の生活を守る役割を果たすことはないだろうと感じているのだ。麻生政権がテーマとした「安心社会実現」は、まさにそこに応えようというものだが、残念ながら国民の側にはそれに対する信頼がない。むしろ自分で自分の身を守るしかないと感じている。だから、払った税金を少しでも多く返してもらった方が良い・・・という心理が働く。負担と受益の間に横たわるブラックボックスに対する不信感はそれほどまでに根深い。それゆえ民主党の掲げるような直接還付的な経済政策が一定の説得力を持つのだ。
与党や一部マスコミが声高に批判する民主党マニフェストにおける「財源問題」についても同じようなことが言える。政権が変われば、予算のつけかえが行われるのは当然だが、問題視されている民主党の「目玉政策」による「財源不足」は総予算の10%に満たない額だ。一方で民主党は削る方の対象として、ダムなどの公共事業の削減や補助金改革、独法行政の見直しなどをあげている。ここで、今の国家予算には10%程度のムダもない、だから削れない、と言われて素直に受け入れられる国民がどれくらいいるだろうか。むしろダムにも補助金にも独法もまるきり縁がなく、そんなものは一切不要だと感じている有権者だって少なくないだろう。それどころか、暮らしに役立っている行政サービスはゴミ収拾くらいだ、と言う声さえ聞かれる。そう感じる者にとっては、見かけ上の財政健全化のかけ声などなんの説得力も持たないだろうし、消費税上げの必然を告げられても得心し難いということになる。

先に述べたように、国民の多くは「小さな政府」を望んでいるわけではない。自分に還ってこない負担はまっぴらだと感じているだけだ。一方で、民主党の「子ども手当」に代表される直接還付的な「目玉政策」は、多分に口当たりの良い、わかりやすいところに限定された、断片的なものだ。それは必ずしも福祉国家としての未来像を示すものではなく、党として将来、どのような再配分のシステムを構築するのか、その全体像は十分語られていない。「財源問題」以上にそちらの方が問題ではないか。そもそも、小沢氏の代表就任以前の民主党は「構造改革」を掲げて新自由主義的な国家像を標榜しており、今もそうした考え方の政治家を多数擁する政党でもある。あるいは「中福祉中負担、安心社会実現」を謳う自民党の国家像の方が、それが機能するしないを別にすれば、より福祉国家的であるかも知れない。仮に民主党政権が実現して、霞ヶ関に代表される既存秩序を「壊した」あと、どのような再配分のシステムが構築されるのか。小泉改革の轍を踏むことにならないか、注視しなければならない。

このように、国家のありかたそのものへの不信が蔓延するなかで、わかっていることは、未来の日本人が、かつてと同じようなやり方で幸福に生きる道筋は、およそ見出し難いものだと言うことだ。減じゆく国富を、既得権益を持つ者に囲い込ませることなく、かといって特権的な立場の者が山分けするような事態も惹起せず、新たな分配の哲学を示すとともに、それを実現し得るシステムを再構築すること。それが本来の意味の「改革」である筈だが、その具体な道筋は、民主党も含めて十分示されていないということだ。さらに冷淡な言い方をすれば、猫も杓子も「改革」を叫ぶなかで、ひとしく国民を幸福に導く魔法のような「改革」など存在しないことを既に知ってしまった多くの有権者が、仮に「非自民」に雪崩を打つとしても、それはもろ手を挙げての積極的な民主党支持では決してないと言うことだ。
これまでと違う未来を切り開く必要に迫られながらも、どこかで、これまでと同じ未来を願う(あるいはそれ以外を怖れる)私たちは、いま道しるべのない分岐点に立たされている。いまこのときに決断しなければ手遅れになるという焦燥感とともに。


以下は蛇足にして邪推かも知れない。だが、今言っておきたいことでもある。
国が衰退期にあることが明らかで、しかも既に幾度かの反転攻勢(改革)にも破れ、多くの人々が深い諦めの気持ちのなかにあり、しかも、諦めていては生きてはゆけぬような窮状にあるとき、なにが起こるか。
理性的、合理的判断は、得てして好ましくない未来像も正直に映し出す。ならばそれらを捨て去って、感情的で独善的な、衝きあげる自己肯定の欲求に身を任せ、自己又はその属する集団を徹頭徹尾肯定しそれに反する勢力は徹頭徹尾排斥する。そして政治的指導者にはそのような強さとエネルギーを求めてゆく。たとえば、小泉。たとえば、橋下。たとえば・・・。
ありきたりの杞憂だとは思うけれど、たとえば、ネットをはじめとする匿名の言論や、風俗や文化などの断面に、そういうなにかを感じることがある。
政権選択と囃されるこの総選挙のその先に、私たちが早くも落胆を想像するとき、その末に待つ第二幕、第三幕は、どんなものになるのだろうか。

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