[101] 事業仕分けと、政治記者の懺悔
- 投稿者
- 民放記者 米田浩一郎
- 投稿日
- 11/30 12:13
政府の行政刷新会議による事業仕分けが終わった。のべ9日間の作業
で少なくとも1兆7000億円の“ムダ”を指摘した。国家予算の使い途が、
衆人環視のもとで“査定”された。
仕分け人たちが、お役人たちを舌鋒するどくこき下ろして血税を“奪
還”する模様が日々報道され、試みは概ね国民から支持されたようだ。
この風景を見ていて思い出したのが、かつて自民党をぶっ壊す、と息巻
いて構造改革を推し進めた小泉政権に対する国民的熱狂だ。当時、既得
権益に群がる族議員や官僚機構に立ち向かったその姿に、多くの国民が
やんやの喝采を送り、郵政民営化を掲げた選挙では自民党を圧勝させた。
その自民党から政権を奪った民主党が、最大の目玉政策として取り組
んだのが事業仕分けである。今回も、国民のエールを背にした仕分け人
たちが、「子ども手当」をはじめとするマニフェストを実現するため、各
省の予算に斬り込んでいった。本来なら国家予算は、国民へのサービス
を実現するもの、いわば血税の還元にあたる部分なのに、国民の大多数
はそれが削られれば削られるほど喜ぶ、という倒錯した図柄が展開した。
既得権益を貪るお役人や族議員、特定業界の関係者から税金を取り戻し
て欲しいという期待は、かつて小泉改革に寄せた期待と同根ではないか。
作業の後半になって、スパコン予算を削るのは如何か、とか、ノーベ
ル賞のお歴々が出てきて科学技術予算は大事にしなければいけない、な
どと仕分け批判の声もあがったが、さほど世論は動かなかったように見
える。やれ科学だ、文化だと、文句のつけにくい立派な目的が語られる
裏側には、税金を無駄遣いしたり食い物にする構造が隠れているのでは
ないかと言う不信の念が拭えない。そこをバッサリ切って「子ども手当」
でも「タダの高速道路」でも、何でも良いから直接還元して欲しい、と
言うことではないか。
そうした態様を衆愚政治の極みとする批判もあって、それも的を射て
いると感じる。だが、民の信頼をとことん失い、愛想を尽かされた政府
の体たらくを先になんとかしなければ、どうにもならない。既得権益の
恩恵に与れない大多数にとって「自分たちの納めた税金が自分たちの為
に使われていない」という、国家に対する決定的な不信感が、もはやあ
たりまえのことになっている。では、この不信感は誰を利するのか。
仕分け人たちは、こうした絶望的な不信感を背景に予算解体に挑んだ。
既に多く指摘されているように仕分けには明確な基準がある訳ではない。
政治家ばかりではなく、現政権が国民にはかることなく意のままに選ん
だ有識者たちが、それぞれの識見で、予算の当否を断じる。ここでの有
識者の起用は、かつて自民党が便利づかいした種々の諮問会議を思い起
こさせる。
亀井大臣が批判したように、中には、海外の金融機関に籍を置く人も
いれば、小泉構造改革の推進装置ともいえる「総合規制改革会議」で派
遣労働解禁の旗を振った人物も含まれている。陣容を仔細に見てゆくと、
民主党が本来、新自由主義的な色彩を強く帯びる構造改革政党であった
ことがよく判る。黄昏の自民党にあって“ムダ撲滅の先駆者”を自認する
河野太郎氏が、事業仕分けの活況ぶりに「正直、うらやましい」とブロ
グに綴ったのも頷ける。国家による富の再配分を最小限とする“小さな政
府”を待望する人たちにとって、政府への不信感は追い風なのだ。なかに
は、旧い利権を解体して、それを新たな利権として我田引水をはかる者
も含まれているかも知れない。
いずれにせよ、予算規模を縮小し、政府による規制を緩和し、政府が
あずかっていた領域を市場に委ねることを望むのは、市場とうまく折り
合いのつく人々であって、派遣切りにあって生活困難をきたすような人
々ではない。事業仕分けに喝采を送った国民の多くが“小さな政府”を望
んでいるかと言えば、必ずしもそうではないだろう。現前する“ムダに大
きい政府”の解体が必要なことに同意はしても、その先では新たな再配分
の仕組みが示されることを望んでいるのではないか。
民主党もそこのところはわかっているのか、事業仕分けはあくまでム
ダを排除するためのもの、と説明している。仕分け人の人選方法や作業
に費やす時間などに鑑みても、それ以上の役割を担わせるのは不相応だ
ろう。であれば、この仕組みがかつての「総合規制改革会議」のように、
膨張し、偏った形で利権の再配分を行う存在へと傾斜しないよう注視し
なければならない。
本来ならば仕分け人の登場を待つまでもなく、予算編成の実態、血税
の無惨な浪費蕩尽ぶりが、もっと早くもっと詳らかに、国民に知らしめ
られるべきだったのだ。いま、報道機関はこぞって、これまで密室で進
められてきた予算編成が一部とはいえ明るみに出た、などと嬉しげに論
じているが、それはそもそもジャーナリズムの仕事ではなかったのか。
富の再配分がどのように実現されるのか、国家の予算編成をつぶさに監
視することこそ、政治経済報道の要諦であることは疑いない。複雑怪奇
な予算編成の仕組みを読み解き、それこそ仕分けして見せることが求め
られていた筈だ。政治報道は、国会における予算委員会の形骸化と歩調
を合わせるかのように、政治家の人物劇を追い回すことに没頭し、密室
で行われる利権の分どり合戦の醜態を知りながら看過してきた。報道の
現場に身をおくひとりとして、仕分けの風景を前に忸怩とした思いが拭
えない。