報道人

[93] どっちつかず

投稿者
民放記者 米田浩一郎
投稿日
09/29 13:50

 「どっちつかず」という言葉はあまり良い意味で使われない。だが「黒白を明らかにする」などと言うのは響きがいい。夏のおわりの総選挙は、そういう意味では明快だった。
発足した鳩山新内閣は支持率も概ね7割超えという順風満帆のスタートで、初の外遊も概ね好感をもって受け止められているようだ。ともかく、長らく続いた「自民党の時代」が強制終了され「民主党の時代」が始まったことが日々実感される。それもこれも、圧倒的な獲得議席があればこそだ。じっさい、先の選挙で民主党が獲得した議席は、二大政党という言葉を無効にするほどの数だ。本来ならば次の参議院選挙は、政権を委ねられた民主党が厳しく評価を問われる最初の機会となる筈で、ことによれば早々にも政権の座から退く事態もあり得た。しかし、この暴力的なまでの議席数では、参院選も審判の場として機能しないかも知れない。
 では、民主党の300を超える議席の実態はどうか。マスコミを賑やかす「小沢ガールズ」はじめ、夥しい新人議員たちの資質を、いますぐ断じるのは早計かも知れない。実務型と評される内閣の顔ぶれには存外安定感があり、彼らが政権公約を誠実に実行する姿勢を崩していないことも高い支持率に繋がっているのだろう。
 一方で、この数の求心力は、民主党内部においては執行部への批判を封じる圧力としてはたらく。政権が当面盤石だという意識が拡がれば、党内での権力抗争、分派抗争などにある種の自浄作用を期待することも難しくなる。抵抗姿勢を見せていた霞ヶ関も、草木が靡くように民主党政権に「適応」していくだろう。社民党、国民新党との連立政権も、民主党にとってもはや必須とは言い難く、小二党の発言は決定力を持ちにくい。そして民主党政権は大きく強く、自らを疑う機会をもたない硬直した権力へと傾斜する危険をはらむ。
 一方で下野した自民党の方は、これが半世紀余もこの国を統治してきた政党なのかと疑わせるほど存在感がない。まるで抜け殻のようだ。彼らが再び「もうひとつの選択肢」として民主党と伍するところまで立ち直ることが本当に出来るのか。再生を期する総裁選にもあまり注目が集まっていない。総裁候補たちの演説を聞いても、民主党との違いがどこにあるのか、訴える姿勢が見えるのは、小さな政府を連呼する河野太郎氏くらいのもので、ピントがぼやけている。

 同じ二大政党でも、米国の共和党と民主党、英国の保守党と労働党、これらにはもう少し明確な立ち位置の違いがあるように見える。ひらたく言えば、金持ちの代表か、それとも持たざるものの代表かなど、個々の生活基盤に密着したところで、それぞれの利害を背負う政党としての色が見える。ある人たちにとっては、政党支持は選択の余地のない生活の問題でもある。そして、対峙するふたつの政党が、相反する利害を振り子のいったりきたりの中でバランスしてきた。片方の政権運営が行き過ぎれば、次にはその反動でもう一方が権力を握るというふうに。
 そうした観点で見たとき、この国の民主・自民の二大政党には、それぞれ固有の「背骨」がとおっているようには見えない。経済政策ではどういう立場の人たちを利するのか。外交防衛の哲学の相違は何か。あえて言えば、公共事業を生活の糧に生きる地方の人々の利益代表としての自民党には、田中角栄の時代からつづく土着の色があった。それを構造改革というひと色で塗り潰したのが小泉政権だったかも知れない。民主党はどうか。今回、大都市圏はもちろん地方都市でも浮動層を大きく取り込み、農村漁村でも支持を拡げた。議員の顔ぶれを見れば、もともとはザ・自民党という類の人たちから旧社会党議員までが混在し、経済政策も外交安全保障政策も、ひとつの旗のもとに集うことにムリを感じるくらい幅広だ。その融通無碍ぶりは、派閥全盛期の自民党のレンジをも凌ぐ。
 であるがゆえに、この総選挙でそれぞれの有権者が民主党の何を選んだのか、スッキリ理解するのはとても難しい。小泉改革で経済的に凹んだ人たちがバランスを取り戻したのだ、という説明をする人もいるし、確かにそういう側面はあるだろう。けれど民主党は必ずしも社民主義的な政党ではないし、かつては構造改革路線を全面に打ち出す政党でもあった。だいいちあの郵政選挙で小泉総理を支持した人たちの多くが、今回民主党に投票している。そもそも民主党自体が、自民党をリニューアルしたような存在だから、有権者の多くは根本的な価値観の転換を望んだのではなく、行く先は同じのまま、古い船から新しい船に乗り移ったようにも見える。ともかくいちど「洗濯」して垢を落とすことが第一であり、旗色の違など、そもそも求められていなかったのかも知れない。
 そして、二大政党制とはそういうものと言えばそれまでだが、皆がいっせいに勝ち馬に乗った結果、もうひとつの選択肢は風前の灯火となった。というか、新旧だけが争点であるなら、乗り捨てた古い船をもう一度選ぶ理由がどこにあるだろうか。

 しかし、そもそもの二大政党制は、長い目で見た時には、ふれる振り子の行ったり来たりのどっちつかずなダイナミズムに、国の舵とり、相反する利害の調整を託すものでもある。いちどの選挙で永久に黒白が決してしまえば、敗者に身を託した者は生きてゆかれない。だから、選ばれなかった方の政党も、次の選択肢として截然として存在し続けなければならない。別の言い方をすれば、二大政党制はそれ自体、常にオルタナティヴを内在した、自己否定の動機を孕んだ政体なのだ。当然それは、古い新しいの問題ではなく、思想の別に、立ち位置の違いによるものでなければなるまい。今やすっかり沈静化してしまった政界再編論の眼目も本来そこにあった筈で、自民・民主の二党をガラガラポンして、旗色の対峙するわかりやすい二大政党に組みかえようというものだった。しかしそうした手順を経ることもなく、一方の民主党が「総獲り」して、オールジャパン代表に座ってしまったのが現実である。もしかしたらそれは、異なる価値観がつねに共存し、対峙し、論戦のやまぬ社会を、私たち日本人が好まなかったからかも知れない。
 だが政治は、もとより相反する利害を調整するための場であって、隣人とのあいだに価値観の相違や利害の矛盾が存在しなければ不要な存在だ。それゆえ万民をひとしく幸福にするとか、普遍絶対の善を実現するかのような神がかった言いぶりは信じるべきでない。いまの民主党の、なんでもかんでも呑み込んで巨大にふくれあがった姿は「千と千尋」の”カオナシ”のようにも映る。民主党が、その存在根拠としてのマニフェストに執着するのは、ある意味正しい。彼らと、彼らに一票を投じた有権者を繋ぐものは、思想でも哲学でもなく、具体的な政策実現の約束だけである。しかし、そこに書かれていることだけで世界が成るわけではない。マニフェストのその先で、彼らが、誰のどんな利益を守ってくれる政党なのか(かわりに誰の何を犠牲にするのか)、外交の場で、安全保障の重大局面で、どのような判断をする政党なのか。有権者の側としては、現実にはそれが存在しないとしても、つねに「もうひとつの選択」へと想いを繋ぎながら、不断の問いを発し続けるほかない。 

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