内田樹 メディアの定型化にⅠ
2010/08/04
~「メディアの言葉には涙がない」~
―ニュース番組はご覧になりますか?
昔は見ていましたけど、だんだん見なくなって、ある時から「もういいや」ってなりました。テレビは久しく見ていないです。
―テレビを見なくなった理由は何ですか?
定型的になってきたからです。決まりきった言葉がただ行き交っているという感じがあるじゃないですか。個人が話しているのではなくて、できあいの定型が話しているという感じ。言葉に個人の身体の裏づけがない。「自分が言わなきゃ、誰が言うのか」という言葉ではなくて、いずれ誰かが言いそうなことを言っている。それはやっぱりつまらないですよ。
―新聞は読んでいますか?
新聞もそろそろ読むのやめようかなと思っています(笑)。外信のニュースの場合、テレビでの情報はほとんどないですから新聞でカバーするしかないんですけど、ニュースの分析や解説が本当に薄っぺらで。
署名記事で書いている人たちも定型的になってきて、面白くない。若い時は、おじさんとかおじいさんみたいな人たちが論説委員として書いていたから、「よくわからないけど、きっと人生経験ゆたかな人だから、色々考えているんだろうなあ」と思って読んでいた。でも、最近書いている人はもう大半が僕より年下でしょ。そうなると、読んでて意味がわからないところについては、「そのうち僕もおとなになったらわかるようになるだろう」という留保がつかない。「年下のくせにわかったようなこと言いやがって」って思う(笑)。
さっきも、平川克美(ひらかわ・かつみ)君たちと、今のメディアの言葉には「文学がない」「影がない」「涙がない」ということを話してました。「悲しみ」とか「屈辱感」とか「羞じらい」とか、そういうものがないんですよ。やっぱりね、メディアだって、コンテンツよりも文体ですよ。「関川夏央みたいな含羞のある文体がメディアにも欲しいな」なんて贅沢なことを言っていました(笑)。メディアにそんなことを求めるのは酷だということはわかるんですけれども、それでもね。
―今、参院選を前にテレビや新聞がシリーズ企画を組んでいますが、それをご覧になって思うことはありますか?(※インタビューさせて頂いたのが、6月末でした)
騒ぎすぎですよね。メディアは変化を好みすぎる。市民感覚から言えば、世の中なんかあまり変化しないほうがいいに決まっている。「今日も昨日と同じで、天が下新しいことは何もありませんでした。ちゃんちゃん」という鼓腹撃壌状態が生活者としては一番幸福なんです。でも、メディアはそれじゃ商売にならない。変化しないと飯が食えない。だから、メディアは変化を切望している。
それはそっちの仕事なんだから、それはそれで構わない。でも、生活者は決してあらゆる場面でドラスティックな変化が生じることなんか、望んじゃいない。それを望んでいるのはメディアの方であり、そこにははっきりと利害の対立がある、ということを意識した方がいいと思う。
メディアは変化で飯を食っている。だから変化を望む。変化しそうなところがあれば、行って火に油を注ぐ。変化しそうもないところがあれば、手を突っ込んで引っかき回してでも変化させようとする。それがメディアの業なんです。
絶えず状況を攪乱し、世の中を上を下をの大騒ぎに引きずり込むことで利益を上げるようにメディアビジネスは制度設計されている。その事実をメディアの当事者自身、もうすこしクールに見つめた方がいいと思う。自分たちのそういう本性をもう自覚したほうがいいと思う。
僕はそれが「悪い」と言っているわけじゃない。世の中には「そういうもの」も必要だと思う。でも、メディアの暴走をどこかで制御しないと、世の中はバランスが悪くなって、住みにくくなる。そういうことです。
メディアが絶対言わない言葉は「落ち着け」です。絶対言わない。「少し頭を冷やせ」とか、絶対言わないです。
だけど今日本に一番必要な言葉は、政治でも経済でも、あるいは医療でも教育でも、環境問題でも財政破綻でも、言うべきことは、「ちょっと頭を冷やして、落ち着け」ということなんです。でもメディアは本性上、そのような言葉を口にすることができない。危機に臨んでも、「もっと騒げ」「もっとうろたえろ」という以外の言葉を思いつかない。
もちろん、社会制度の中には、変化しないといけない部分もあるし、危機感を煽らなきゃいけない時期もある。でも、そうじゃない点もたくさんある。
宇沢弘文先生が「社会的共通資本」と呼んでいるような社会資源、例えば、森林とか海洋とか河川、あるいは上下水道とか通信とか交通機関、司法とか教育とか医療とか、そういう社会生活の根幹にかかわるものは、もともと惰性の強いもので、急激な変化にはなじまない。「理想的にはこうあるべきだ」というようなファナティックな信念や、「こうすると金になる」というような算盤勘定でそういうたいせつなものはいじってはいけない。社会生活の根幹にかかわるものは、政治と市場と切り離さなければいけない。
逆に言えば、政治と市場に結びつければ、なんでも変化する。変化しなくてもよいものでも変化する。
メディアは「変化」で飯を食っているから、あらゆることを政治か市場に結びつけようとする。
僕は教育の現場に長くいたから、メディアに対しては浅からぬ恨みを抱いているんですけれど、メディアは教育をつねに政治か市場にリンクして論じてきた。「政治的に正しいか」という綱領的な議論か、「それをすると金が儲かるか」という算盤ずくか、どちらかで論じてきた。
そのせいで教育現場はぐちゃぐちゃになった。
でも、ぐちゃぐちゃでもなんでも、それが変化でさえあれば、「ニューズ」でさえあれば、メディアは歓迎する。「飯の種」なんだから歓迎するに決まっている。
でも、教育や医療には、急激な変化は要らない。変化するにしても、それは専門家が専門的立場から専門的知見に基づいて起案し、実施すべきものであって、政治家やビジネスマンやメディアが口を挟む筋のものじゃないんです。
先日、大阪市の市長の特別顧問に着任して※(1)記者会見をしました。「抱負を述べろ」と言われたので、「教育現場の人間としてお願いしたいことは、行政は教育に関与するな、メディアは教育に関与するなということです。つまりここにいる人は教育に関与しないで欲しい」って話しました(笑)。
任命者である市長にそんなことを言うのはまことに失礼なことだけれども、顧問としては、まず“教育権の独立”ということを申し上げました。
市長も教育に随分情熱を持っていらして、なんとか教育をよくしたいという思いがある。それは貴重なことだと思うし、市長の教育理念には僕も賛成なんです。
でも、それでも地方自治体の首長には教育に関与して欲しくない。
かりに平松さんが「正しい教育理念」に基づいて、教育行政に強いリーダーシップを発揮したら、そのあと、市長の任期が終わって、こんどは次の市長が平松さんと正反対の教育理念に基づいて、強権的に市の教育制度を改変しようとしても、それを止めることができなくなる。
選挙で選ばれて、短期で入れ替わる行政官に教育制度を朝礼暮改されたら、現場が一番困る。教師と子どもがいちばん迷惑する。だから、“教育権の独立”ということを申し上げたんです。
記者諸君に対しても、「教育に関してはできるだけ報道しないでくれ」とお願いしました。
メディアはなんとか教育制度を変えようとするから。「これでいいのか、教育は」というフレーズでしか思考できない。だから、「なんとかしろ」って必ず言うんです。でも、現場では、「いいんだよ、これで」というのもあるわけですよ。変えようがないものとか、変えてもいいけど、急に変えない方がいいものとかあるんです。それは現場にいれば感覚でわかる。でも、外から見ているとわからない。
メディアは、ゆっくり変えるとか、今やっていることについてある程度結果が出てから判断するということが嫌いなんです。嫌いというかできない。
この間の記者会見でも最初の質問が「橋下(大阪)府知事についてどう思いますか」というものでした。
僕は「わからない」と答えました。
「政治家に対する評価というのは、政治的な業績が出て、その成果について判定するものであって、まだ任期途中でほとんど業績らしい業績のない政治家について批評を下すのは早計であるし、ましては知事の人間性について語る気はない。政治家はあくまでその業績について評価されるべきであって、人間的に好きだとか嫌いだとか論評する対象ではない」と言いました。
でも、「長い時間をかけなければ成否がわからない問題」というのはメディアの盲点なんですよ。
―メディア、特にテレビは、目の前で起きていることを短期的に追いがちですよね
それが結局、メディアが信頼性を失っている原因ですよね。短期的に論じなければいけない問題もあるけれども、中長期的に、長い地政学的な視野の中で論じなければいけない問題だってある。でも、メディアはとにかく短期的なことしか扱わないし、視野が狭い。
それが速報性の限界なんですよ。歴史的な文脈があってある事件が起きたんだけれども、「なぜこんな事件が起きたのか百年前からさかのぼって話します」とか、「東アジアの問題、或いはアジア全域、国際社会の中で見て話します」とか、大きな視野の中で、長い文脈の中で、今起きている問題を論じるということをしない。
「今から百年前」というところから始めないとわからないことがいっぱいある。
メディアはそういう切り口を持っていないんです。だから、ニュースを見てもその出来事が何を意味するのかがわからない。
出来事というのは文脈依存的なのです。だから、どういう文脈の中に置かれるべきかを示さない限り意味がわからない。短い文脈と長い文脈では、意味が逆転することだってある。
ニュースは単体では、それが何を意味するのかわからないんです。
でも、今のニュースの提示の仕方は、ほとんど脊髄反射的でしょう。かっと感情的になって、「憤りを抑えられません」とか「許されないことです!」とか力んだりするけれど、重大な出来事であればあるほど、非情緒的に提示しないといけないということがわかっていない。
テレビの画面に出てくるのは、感情表現が激しい人たちばかりになってきましたね。「市民の声」といって選ばれて流されるのも、声の大きい、ヒステリックなことを言う人たちばかりで、静かな声で、ゆっくりと射程の深いことを語る人は排除される。もちろん放送時間が何秒と決まっているんだからどうしようもないけれど、それがフィードバックされていって、結果的に、カメラを向けられると、誰もが、とりあえず強い言葉、激しい言葉を口にするようになる。断定的に、短い時間でスパッともの言うようになる。<
―去年秋の政権交代時の報道に対してはどう思いましたか?
民主党は若い人たちばっかりの政党だし、慣れていない人たちがやっているんだろうから、一年ぐらいはゆっくり見てあげようよと思いましたね。その後から政策についての批判が始まればいい。
政権与党になって初めて知ることってあると思うんですよ。実は金庫に金がないとか、実は米軍基地に核兵器があるとか、野党時代には全く知らなかった話というのがいっぱいあるわけですよ。それに慣れていくには随分時間がかかると思います。
メディアはでも、政府がゆっくりと政権になじんでゆくことを許さない。変化しないと困るんですから。とにかく変わって欲しい。
鳩山政権の末期にメディアは連日「辞めろ、辞めろ」と批判の大合唱だったのに、辞任の翌日の新聞は「政権投げ出しとは無責任な」ですからね(笑)。昨日まで「辞めろ」と言っていて、今朝は「辞めるとはけしからん」(笑)。この新聞の一貫性のなさが自分で恥ずかしくないのかと思います。
―新聞、テレビ局、というマスメディアの中にいる人たちが、なぜ、文脈で物事を見るということが出来ていないと思いますか?
マスメディアで働く人たちは、受験エリートの人たち、秀才ですね。そういう人たちは、やっぱり「定型」にはまり込む能力が高いわけです。でも、イノベーションを担う人たちではない。
日本のマスメディアは難関ですからね、倍率が高いところをくぐってくる人は、パターンが決まってくるんですよ。秀才は決まり切ったことを手際よくやるのはうまいけれど、新しいモデルを作り出す能力はない。
メディアの草創期には、たぶんすごく面白い人たちが集まってきたんだと思う。テレビみたいなやくざな仕事に秀才なんか来るはずがなかった時代のテレビがいちばん面白かった。でも、テレビが面白い、テレビの仕事は儲かるということになると、秀才たちが殺到する。そうなったら、もう面白いことは何も起こらなくなる。そうやって一つの業界が生まれて、隆盛を極めて、やがて没落してゆくんです。
―例えばテレビ業界は、既にそういう時代に入ってしまっているんでしょうか
今のテレビマンって、テレビがある時に生まれてきた。テレビがあるのが当然という時代でしょ。テレビのシステムも出来あがっちゃっていて、こうすれば金が儲かる、こうすれば経営がまわっていくというパターンがもうできあがった後に入ってきた人たちは、そもそも「なぜテレビは必要なのか」という問いに対する理論武装をしていない。「日本にはテレビが必要である」ということを根拠づけられない。自分の職場がなくなると困るというような泣き言は「根拠」にはなりません。
なぜ、テレビがなくてはならないのか、その社会的な意義をはっきりと言語化できなければいけない。
僕は「民放テレビ」というのはよくできたビジネスモデルだったと思います。CMをときどきはさんで見てもらう代わりに、無料で映像コンテンツを配信するというモデルはすばらしい発明ですよ。今のグーグルのようなネットビジネスだって、結局は「CMを見てもらう代わりに、無料でサービスを受けられる」という民放のビジネスモデルにまるごと乗っているわけですから。
でも、テレビが成立したさまざまの歴史的な、あるいは技術的な条件のうちのどれが本質的なものであって、どれが欠けたらテレビは存立不能になり、どれが欠けても生き残れるのか、というようなラディカルな議論をテレビの人はしてないでしょう。
なにより、「なぜテレビがこの先も存続しなくてはいけないのか」ということの挙証責任が自分たちにあると思っていない。
僕自身はテレビはなくてはいけないと思っています。民放というシステムはなければいけない。
文化的な視点から言っても、「公正中立」ではないメディアというのは絶対必要なんです。民放は視聴率を気にかけ、スポンサーの顔色を窺い、力のある事務所や大物タレントに配慮して番組を作っている。そういう「わかりやすい外圧」の下でコンテンツ制作している。民放のコンテンツはさまざまな外圧によって偏向させられている、ということをみんな知っている。それはある意味、メディアのありかたとしてはきわめて健全だと僕は思う。それで、テレビはいいんですよ。
―テレビ草創期の人たちが作った番組を見ると、今よりもはるかに果敢な番組づくりをしていたと感じます
果敢も何も、初期のテレビは準拠すべき定型がないから、「何をしてもいい」のではなくて、「何をしたらいいのかわからなかった」んでしょう(笑)。「とりあえずこれはできるか」といろんなことを技術的にも試行錯誤していった。そういう、限られた資源をどう使い回しするかという時には、必ずイノベーティヴな才能が輩出するわけですよ。
―テレビが再生していける可能性はあるんでしょうか。「テレビを見ない」という内田さんでも、こんな番組だったら見てもいいというものはありますか
報道なら、生放送かな。何が起こるかわからないという予測不能性が、わくわくしますね。「何が起こるかわからない」という臨場感は、いまのところテレビでしか出せない。しゃべっているうちにしどろもどろになるとか、絶句するとかいう「メッセージ発信の不調」も含めて、まるごと提示できる。これは大きな力でしょう。
(続く)
※(1)ことし7月、大阪市は、市政全般、特に教育についてのアドバイスをもらうことを目的に、内田さんを市長特別顧問に任命した。
http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/seisakukikakushitsu/0000081535.html
内田 樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学大学院博士課程(仏文専攻)中退。現在は神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、武道論、映画論など。著書に「ためらいの倫理学」「おじさん的思考」「下流思考」「街場の中国論」「村上春樹にご用心」「寝ながら学べる構造主義」「ひとりでは生きられないのも芸のうち」「こんな日本でよかったね」など多数。「私家版・ユダヤ文化論」で2007年小林秀雄賞を受賞。
Re:内田樹 メディアの定型化にⅠ
2010/08/05
- 投稿者
- 金平茂紀
- 投稿日
- 2010/08/05
最近の「私の多事争論」のなかで最も心を動かされました。これはインタビューになっているけれど、ビデオカメラで収録しているのでしょうか? 内田氏は、どのような表情、どのような語り口で、このような言葉を発していたのか、テレビ屋の端くれとして見てみたいと思いました。後編を楽しみにしております。NYにて。
Re[2]:内田樹 メディアの定型化にⅠ
2010/08/06
- 投稿者
- WEB多事争論編集委員
- 投稿日
- 2010/08/06
感想、有難うございます。
今回のインタビューは音声のみ収録させて頂きました。
そして、文字で起こしたものに、
内田さんがとても丁寧に筆を入れてくださいました。
佇まいもお話しぶりもとても魅力的な方でした。
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