私の多事争論

Re:2010年のテレビに

2010/01/14
投稿者
whoot
投稿日
2010/01/14

テレビを見ていて、昔の懐かしい映像が出てきたりするとわりと面白いと思って見ます。
人間は歳をとっていくと昔を思い出したり回顧的になる傾向があるようですが、テレビも歳をとったのか。
問題のひとつはそれが文化になり得るか否かだと思うのですが、以前お台場へ行った時は、安っぽい縁日の亜流のような催しをやっていてちょっとうんざりしました。「大衆」が刹那、喜べば良いというものでもないと思うのですが、少し媚びているというか、より良質のものを提供できないというか。それでも「このごろ面白い番組やっていないね」と私の妻はよく言います。こいつテレビが好きなんだなと思います。息子たちはかならずDSをやりながらテレビを見ています。昔「ルーシーショー」で笑いの効果音が入っていて、あれは一体誰が笑っているのか、不思議でしたが、今のお笑い番組はそうした効果音を多用しているようでちょっと食傷ぎみです。

知らない人がやってきて、あんた誰?と、それであれこれ言ってきて、直せ、という話は業界の裏側が見えてとても面白かったです。そうしたテーマで社会派の(あるいは軽妙なブラックジョークの)映画があったら是非見てみたいと思いましたが、問題は「敵」というかcounterpartというか、あまり見えないということなのではないか、と思います。一体何に、あるいは誰に対して異義を提示すればよいのか。責任の所在はどこなのか、が明確でないのではないでしょうか。どこか戦前の日本の状態に似ている気もするのですが、しかし逆に考えると、現在日本は非常に成熟しているのではないか、とも思います。つまりシステムとして非常に高度に成熟している。問題はその高度に成熟したシステムが我々にとって居心地のよいものかどうなのかが分からない、と思うのです。ある人たちにとっては居心地のよいものかもしれないが、ある人達にとっては非常に居心地がよくないかもしれない。

私個人としては「marketing」というものがあまり好きではありません。特にそうした方法で作り上げた映画には特有の「臭い」がすると思うのです。そして大概予定調和的で面白くない。こういう意見も大勢を占めればまたmarketingの対象になってしまうかもしれませんが、自分としては個人的な直観がある作品が好きです。映画監督でも作家的な直観を持った人が好きです(もちろん是枝さんもそのひとりですが)。しかし恐らく成熟したシステムを持った社会はそうした個人的な直観をあまり好まない、つまり「リスクが大きい」という経済用語になるのだと思いますが、個々の内奥から出てくる直観あるいは欲動とでも言ったらいいのか、そうしたものを高度に成熟したシステムはあまり評価の対象にぜず、排除していくのではないか。それゆえに(それだけの要因ではないにしても)以前は活力のあったサブカルチャーのサブカルチャーのようなものが衰えているような気がします。少し怪し気な印象を持った人達、演劇でいえば、寺山修司や唐十郎などは劇的空間へのこだわりがありましたが、いまの演劇はほとんどが「箱もの」に入ってしまったような。それは成熟なのかあるいは退行なのか。かつてのテレビの自由さもあるいはそうした怪し気な「文化」の活力に支えられていたのではないか、と思ったりします。田原さんなんかも若い時はテーマに取り上げていたと思うのですが。

重要な問題はこうしたシステムの高度な成熟が決して「悪」ではないということなのかもしれません。ソフィスティケイトされたシステムとその効率性は「善」として君臨している。しかし同時にそれは生の無軌道な欲望や自由さを硬直した固陋な状態へと変えていってしまうものであるのかもしれない。そのひとつの傾向のあらわれとして単純化ということがあるのではないかと思います。もうかなりまえになりますが「だんご三兄弟」というのがありましたが、あまり好きになれなかった。つまりなんか「marketing」的な感じがするのです。「およげたいやきくん」はあまりしなかった。アーチステックな感じがしたし、パッションがあった。それに対し「招き猫だっく」は「だんご三兄弟」と同じような「臭い」がします。私はうなぎイヌは好きでしたが、招き猫だっくはどうも好きになれない。こうした反感を公の場でいうと、何つまらないことを言っているのか、とか、また逆に反感を買う可能性があるのでこまったものなのですが、何故ならそれは「悪」でもなんでもないですから、非常にこちらの分が悪い。しかしもし戦略的に極めて知能の高い人達によって「だんご三兄弟」や「招き猫だっく」が会議室の一室でできあがるのだとしたらどこか不気味な感じがします。うなぎイヌとは出自が全く異なる。

もうひとつ私が気になることは、是枝さんもおっしゃっているように、社会的な深刻な事件というものを井戸端会議的に無責任に話してそれで終わりというのが多すぎるように思います。以前はNHKが、そうした問題を取り上げる番組が多くあったのではないでしょうか。最近では辺見庸さんがNHK教育で「パンデミック」という言葉で現在を見据えて発言していましたが、非常に興味深く拝見しました。しかし現在のテレビの状況を全体的に見渡せば、社会の悪しき問題をどこか隅の方へと押しやって忘れようと努めているような風潮があるように思います。これも日本社会のシステム保全のためと言えば、蒸し返すほうがかえって悪くなってしまう。ただこうしたスタンスは本質的な病弊を沈潜させて、問題を先送りにしているだけのようにも思えます。団塊の世代の人達は、恐らくこうした社会問題に対してしっかりと主張しながら番組を作っていたように私には思えのですが。あのころはテレビドラマも面白かった。息子たちはこの間放送の「JIN」を夢中になって観ていましたが、わたしにとっては「男達の旅路」とか『ガロ』などサブカルチャーの漫画のテレビ化とか。TBSのドラマも面白かった。「高原へいらっしゃい」とか、根津甚八や風間杜夫の初出演した「娘たちの四季」や「冬の花火」、「たとえば、愛」とかが好きでした。今思えば団塊の世代の人達のエネルギーはやはりすごかったし、物事に対して真摯だったように思います。つまり「システム」に対して従順になるよりは、そのcounterpartとして主張していたように思う。しかし今の若者たちはむしろ如何に「システム」に取り込まれるかということに真摯であるように見えるし、そうならざるを得ない。ああゆう面白い番組を作っていた人達は一体何処へいってしまったのか。田原さんもそうした一人だったと思うのですが、管理職になったり、また引退してしまったりしているのでしょうか。

確かに現在の日本の社会の大企業から共同体まで、そのシステムは非常に成熟したリスクの少ない「善意」に満ちたものになっている。しかし逆説的にそれが我々が自由に生きていく余地を制限しているようにも思える。日本の様々な問題、派遣切りや非婚、少子化、経済格差、いじめ、等といった問題も高度に成熟した「システム」と呼応していると言えるのではないか。そうした難しさと矛盾を現代の日本社会は抱え込んでいると言えるのではないでしょうか。テレビがもしつまらなくなっているとするならば、それはテレビだけの問題ではなく、日本社会の現状のひとつの側面であるようにも思えます。こうした状況を如何に打開するか。答えは簡単には出てきそうにありませんが、是枝さんのおっしゃるようにある種の活力ある「運動」が必要な時期なのかもしれません。私個人としては、唐突のようですが、日本の「路地」を再生させたらどうかと思っています。「洗濯船」のような「路地」。若い人達の生に対する活力を分散させずに、皆で集まって暖まり、あるいは過熱するような祝祭性を持って身体性を回復させるようなトポスが必要じゃないか、と思うのですが、そうしたことが日本社会あるいはテレビという文化にも活力を与える切っ掛けなるかもしれない、と考えています。テレビ放送は、CATVやDVDとは異なり、今、同時間を過ごし、同時代のを生きているという人々の気配や息遣いを伝えてくれるメディアであり、またそうあってほしいと思います。チャンネルをつければ、今我々の社会は活力を持って生きているのだ、と思える番組をこれからも作っていただきたと思っています。

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