戦後66年、原発、ニッポン。Ⅱ
2017/08/12
~「私にはちょんまげが見える」~
(飯田)
日本の原子力ムラの世界と比べ、その後行ったスウェーデンですが、脱原発の方向性を十年前に決め、きわめてプラクティカルに、環境エネルギー政策の変化を具体化していっていました。原子力について、もはや、賛成反対の二項対立の時代は終わっていて、安全性を高めるための仕事であるとか、使用済み燃料の貯蔵であるとか、そういったことが極めて淡々と実務的に行われていた。その国でももちろん、最後の放射性廃棄物処分の問題では大揉めに揉めていて、今でも完全に結論が出ているわけではありませんが。


しかもその頃の90年代というのは、北欧を源流とするヨーロッパのエネルギー環境革命のちょうど真っ只中でした。「環境税」が北欧諸国で相次いで導入され、ドイツのフィードインタリフ制度※⑤が原型として導入されて、そしてイギリスでは電力自由化も始まっていって・・・90年代のヨーロッパというのは、エネルギー環境政策がガラガラガラと音をたてて変わった時代でした。そういう時代の真っ只中の10年を、北欧を中心に過ごしたので、「なんて時代が大きく変わるんだ」と実感しました。しかも、自然エネルギーを中心として、地域から人々がボトムアップで社会を変えていくわけですね。
そうした北欧社会と、片や「使用済み燃料の貯蔵」を「柔軟的管理」と言い換えなければならない日本の原子力ムラというのは、もう、数十年どころか、何世紀も時代が違うという、そういう文化の違いを感じました。
そうした経験を経て、98年に実質日本で本格的な活動を始めて、自然エネルギー促進法という法律、今のフィードインタリフ制度、全量固定価格買取制度の原型となる法律作りから始めたわけです。
(金平)
まあ、なんというんでしょうね。私は先ほど“鎖国”という言葉を使いましたけど、日本の社会って、今、戦争終わってから66年経ちましたが、本当にね、民主主義の社会なのかなと思うことがあります。僕らの周りにあるようなものって、ある意味ですごく前近代的でしょ。慣習とか、慣例とか。

(飯田)
そうです。そうです。選挙もそうですね。

(金平)
たとえば国会を見ていると恥ずかしくなるでしょ。大臣の記者会見でも、大臣が横からささやかれて、皆の見える前で棒読みして、ああいうのを見ていると、「えっこれが、僕らの政策を決める権力を持っている人間で、長なのか」と恥ずかしくなるじゃないですか。そういう儀式というかセレモニーがずっと続いていて、何か言おうとすると、「金平、こういうもんなんだよ」みたいな。いま、議会の話をしましたが、あらゆる仕組みがそうですよね。
66年かけて、先ほど空っぽということを仰っていましたけど、僕らが何か空洞化してしまったという、その象徴として原発事故があったと思いますね。それはとっても悲しいことで、思想とかそういうものがないということの悲しさですか。民主主義って、血みどろの戦いの後に、犠牲の後に出来上がったものです。でも、今、主権在民なんて言ったって、いまだに「お上」という意識がある。「東京電力様」とかね。浜岡に行くと、中電様」と言っているんですね。つまり電力会社の社員はその地域の名士で、皆、そこにひれ伏すみたいな。先ほど幕藩体制という言葉を使われていましたけど、江戸時代みたいじゃないですか。
(飯田)
本当に。私には、無いはずの“ちょんまげ”が見えますもんね(笑)

(金平)
ははは。
地域からボトムアップみたいなこと・・・。日本ではもう、ぶら下がるわけですよね。ある意味、国にすがるというんですか。「お上と民草」という意識がずっと消えないまま残っている。僕は、実はそういうものに対して異議申し立てをしている世代って、団塊の世代だと思っていたんですよ。僕らのちょっと上ですけど。僕らはその世代の人たちの背中を見て育ってきたところがあるんですが、その人たちのその後の見事な転身ぶり。企業に入って一番ひどいのはその世代の人たちですよ。

(飯田)
裏返しの権威主義で。
(金平)
権威主義で権限を振り回したりね。今の民主党政権なんか、一番権力にしがみつく人たちって、そういう昔の反権力の人たちじゃないですか。そういうのを見るととても情けなくなる。そういう意味で言うと、実は、飯田さんなんかがやられている、ある種の柔軟さというのかな。これはきっと周りからいろんな評価をされたかと思います。例えば、高木仁三郎さんや、あるいは、高木さんの周りにいる人から見ると、「なんだ、あいつ。電力会社と手を組みやがって」とか。
(飯田)
高木さんとは、そうは言いつつも一緒に色々やりました。「市民フォーラム2001」という組織では、高木さんは最初理事でしたけど、我々が東電からお金をもらう時には、高木さんは理事を降りるという、やっぱり高潔な方です。筋を通されるんですよね。それはそれとして、個人的には一緒に色々やりました。

(金平)
高木仁三郎さんの、市民科学者として身を立てるにあたった時の、東京都立大の助手時代に経験されたこと・・・。成田、三里塚闘争で農民たちがどんな目にあったのかということを目の当たりにし、弱いものの視点から自分の科学のあり方とか、科学者のあり方を考え詰めていった結果がああいうことになっていったという。
僕は、飯田さんの身の立て方についてもある種似たような構図を、本を読んで、「ああ、そうだったんだなあ」と感じました。だからきっと、柔軟に、色んなところとの組み方ができるんだろうと思います。
※⑤エネルギーの固定価格買取制度。主に自然エネルギーの普及拡大の目的で用いられる。
飯田哲也(いいだ・てつなり)
1959年、山口県生。京都大学原子核工学専攻修了。東京大学先端科学技術研究センター博士課程単位取得満期退学。神戸製鋼、電力関連研究機関で原子力R&Dに従事した後に退職。現在、NPO法人環境エネルギー政策研究所所長。自然エネルギー政策研究と実践で国際的に活躍する。著書に『自然エネルギー市場』(編著 築地書館)、『北欧のエネルギーデモクラシー』(新評論)、『原発社会からの離脱』(講談社現代新書)など。
(聞き手)
金平茂紀(かねひら・しげのり)
1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。