私の多事争論


内田樹 メディアの定型化にⅡ

2010/08/05

~教育と、身体~



―いま、テレビの世界に突破力や想像力のある人が少ないとすれば、教育現場の状況も関係しているんでしょうか

あると思いますね。今の教育現場では、とにかく競争させようとしている。子どもたちを競争させて、勝者には報酬を、敗者には罰を与えるという単純なルールが教育を支配しつつある。「アメとムチ」で人間はコントロールできるという、信じられないようなチープな考え方を持った人が今の教育行政の中枢に中にはたくさんいるわけです。
競争というのは数値で測るわけですから、他のところを全部揃えないと計測できないんですよ。だから、競争させるためには全員を型にはめなくてはいけない。全部を規格化していく。規格化しないと、数値を比較できない。子どもが全員ばらばらに勝手に育っていると比較できない。だから、競争というのは、その前に「まず規格化」なんです。子どもたちを単一の度量衡でずらっと格付けするために、全員を型にはめる。
僕は格付けそのものに反対しているわけじゃない。たしかに格付けが必要な場面もあるんです。
でも、「格付けをする」ということは、その前段階として、「メンバーを全員同じ型にはめる」ということをしなければならない。そのときにはじめて「それ以外のすべての条件を等しくしたときに、どちらが優れているか」を考量することができる。
規格化し、格付けすれば、教育効果がある場合もある。だからときどき使ってみてもいい。
試験をするというのはそういうことです。試験範囲を決め、試験日時を決め、試験会場を決め、同じ時間内に同じ問題を解かせる。「それ以外の条件をすべて等しくした」から受験生の格付けが可能になる。
でも、比較したり、数値化したりすることはできないけれど、すばらしい才能や資質というのは子どもたちのなかに豊かにあるわけです。でも、例えば「何でも食べられる能力」とか「どこでも寝られる能力」とか「誰とでも友だちになれる能力」といったものは、人間が生きる上ではすばらしい力ですけれど、格付けするものじゃないし、そもそも他人と比較して優劣を論じるものでもない。
でも、競争のために子どもたちを規格化しようとすると、そういう「他人と比較することができないけれど、生きる上ですばらしく有用な人間的資質」は視野から消えてしまう。場合によっては「不要なもの」として禁圧されてしまうことさえある。
それが競争させることの最大のリスクだと僕は思います。
子どもたち一人ひとりが持っている独特の可能性をどうやって開花に導くか。潜在可能性は一人一人違う。この子はかぼちゃで、この子はなすで、と、いうようなもので、全員種類が違う。だから、育て方も違う。僕たちにできるのは、それぞれ時間をかけて開花させて、「美味しいかぼちゃ」「美味しいなす」に育てることです。
定型化と格付けというのは「かぼちゃ」と「なす」を重さで比べたり、長さを測ったりして、優劣を論じるようなものです。

―さらにいうと、そういった「定型化」は、教育現場だけではなく、日本全体のどの組織でも進んでいませんか

末期的ですよね。でも末期ということは、これでそろそろおしまいということでね。定型化と競争原理に対する反省は出てきているんじゃないですか。少なくとも学校教育の場では、競争を激化させて、格付けしたことによって子どもの学力が劣化してきていることはみんなもうわかっている。「さらに競争を激化させ、学力のある子どもに報酬を、学力のない子どもに罰を与えよう」というような教育論を語る人はさすがにもういませんからね。

―「定型化」が進んでいる状況というのは、今の時代だからこそなのか、日本人がそもそも持っている特徴なのでしょうか

長いスパンで見ればゆったりとした波がある。民主的な時代もあれば上位下達の時代もあり、定型化が進む時代もあれば、個性が開花する時代もある。必ず揺れ動きはあります。今は定型化と格付けが極限まで行った時代です。でも、それには歴史的前段がある。「豊かで安全」ということですよね。あまりにも豊かで安全な時代が長く続いたせいで、イノベーティヴである必要がなくなった。先ほども言いましたけれど、人間が生きる力を賦活させて、さまざまな工夫を凝らすのは、「貧しい資源しかない環境を生き抜くとき」なんです。豊かで安全な社会にイノベーションは不要なんです。
定型じゃ飯が食えない時に初めて人はものを考えるようになる。ゼロからものを作る時、どうしたら手持ちのこれだけの資材で新しいものを作れるか、必死になって考える。自分たちの使える資源の発揮しうる最大限のパフォーマンスを一生懸命考えて工夫する。危険な時は人間は能力を発揮するし、安全になると無能になる。ある種の自然過程なんです。

テレビはずいぶん長い期間繁栄してきた。だから、いずれ没落期は来ますよ。ぼちぼち。どこまで落ちるかは知りませんけど。かなり没落する。でも、その時に「それでもテレビは生き残ることが必要だ」という強い使命感を持っている人たちだけが生き残る。彼らが次の時代のテレビを担っていくことになるんじゃないですか。

―「定型化の加速」に、いまの人が「土にもあまり触れず、身体を使わず、感覚を使わなくなった」ことが関係していますか?

身体を使わなくなると物事の判断がつかなくなるというのはほんとうです。僕は「身体で考える」タイプの人間だから、良否の判断はだいたい皮膚感覚ですね。仕事のオファーも「なんか気分が悪い」と断る。どうして気分が悪いのか、言葉では言えないけれど、身体が「厭だ」と反応する。
今、ちょうど道場の設計中で、若い建築家が設計してくれているんですけれど、すごく斬新な屋根のデザインを考えてくれた。曲線的なものだったんですけれど、「この屋根は使えない」と言ったんです。別のアイデアを出してくれと、東西南北がきちんとしたものじゃないと道場の屋根には使えないと。
「なぜこれではだめなんですか、流れがあっていいじゃないですか」って彼は言うんだけれど、そういうものじゃないんです。屋根に流れがあると、中にいる人間の方向感覚が狂ってしまうんです。道場で稽古する時には、東西南北の線がはっきり出ていないと、身体の動かし方がむずかしいんだと説明しました。
もちろん道場からは屋根のかたちなんか見えませんけれど、感じるんですよ。東西南北と違う線が自分の上に走っていたら、人間の身体はそれに反応するんです。そうすると、体捌きのときに足が乱れちゃうんです。人間て、わかるんですよ。窓がなくても、どちらが北か南かくらいは。
稽古のときは、まず最初に合掌して、地球の重心に対して垂直であるかどうかを点検する。まず鉛直方向を決めて、その次に東西南北を感知する。それからゆっくり身体を吊り上げていく。
人間の身体がどれぐらい、置かれているものや、壁の模様や、天井の柱組みに支配されているか、現代人はあまり言いませんけれど、僕みたいに触覚で考えている人はそういうことばかり気になるんです。身体で考えるっていうのは、頭で考えている人にとっては「存在しないもの」をデータに入力して考えるということなんです。



内田 樹(うちだ・たつる)
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒。東京都立大学大学院博士課程(仏文専攻)中退。現在は神戸女学院大学文学部教授。専門はフランス現代思想、武道論、映画論など。著書に「ためらいの倫理学」「おじさん的思考」「下流思考」「街場の中国論」「村上春樹にご用心」「寝ながら学べる構造主義」「ひとりでは生きられないのも芸のうち」「こんな日本でよかったね」など多数。「私家版・ユダヤ文化論」で2007年小林秀雄賞を受賞。



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