6.23記念パーティ

日本記者クラブ賞受賞記念〜筑紫哲也を囲む夕べ

2008年6月23日(月)
於)日本プレスセンタービル内アラスカ

目玉オヤジ
この会は、18年半にわたって番組の発展に尽力いただいた方々に謝意を伝えたいという筑紫氏のたっての希望により開かれたんじゃ。
鬼太郎
会場にはジャーナリズム・政治経済・芸術界やTBS・JNNの関係者約350人もの人が集ったんだよね。
目玉オヤジ
この日は、くしくも番組がこだわり続けた「沖縄慰霊の日」だったんじゃ。そして筑紫さんの「73歳の誕生日」でもあったんじゃ。
鬼太郎
冒頭、筑紫さんの誕生日を祝って『Happy Birtrhday Dear筑紫さん』を皆で合唱して会は始まったんだよね。以降の様子を伝えるよ。

©水木プロ

[乾杯の音頭]評論家・立花 隆氏

たくさんの先輩をさしおきまして私が乾杯の音頭をとらせていただきますのは、僕と筑紫さんはずいぶん昔から一緒に仕事をしてきた仲でありまして、実は、現在も東京大学で、筑紫さんの「組織的なヒアリング」をずっと続けております。筑紫さんは、放送ジャーナリズムだけじゃなくて、活字ジャーナリズム、新聞・雑誌すべて含めて、この人ほど日本のジャーナリズムの歴史を自ら体現している方はいらっしゃらないから、筑紫さんの活動すべてを「オーラルヒストリー」という形でずっと組織的にヒアリングしています。

今日、会場の端々でいろいろ話しまして、今、日本という国が本当にガラガラと崩れ始めている。そういう状況の中で、筑紫さんの『ニュース23』が、番組自体は続いていますけれども、筑紫さんの23が無くなったということは、ものすごく大きなことでして、日本の将来にとっても非常に困ることだと思います。ですから、また何らかの形で放送だけでなく、活字も含めて筑紫さんが第一線に復帰してらっしゃることを期待して皆さんと乾杯したいと思います。乾杯!

[スピーチ(1)]久木 保・元TBS報道局長

彼を朝日新聞からTBSに引っ張ってきた経緯をお話します。筑紫さんと私はワシントンで一緒におりまして、ちょうどウォーターゲート事件の頃で大変忙しかったわけですが、私と筑紫さんの共通点は「ゴルフはやらない、ただしマージャンは非常に好きだ」ということでありまして、ワシントンはゴルフを楽しむのには非常に便利なところで、5分も行けばゴルフ場があるので、記者仲間の多くは、朝起きてはゴルフに行っていたんですね。それでも1ラウンドやっても昼のホワイトハウスの会見に間に合うというようなことで、皆やっておったんですが、私も筑紫さんもやんなかった。ただマージャンのほうは非常に好きで、寸暇を惜しんで随分やりまして、私はバージニア州に住んでいたんですが、メリーランド州の筑紫家に車を飛ばして通ったものであります。

帰国してからもしばらくお付き合いしていたんですが、87年にTBSが「久米宏さんのニュースステーションに対抗して、何か報道で番組をやれ」ということになりまして、6月くらいでしょうか、「やっぱり筑紫だ」ということで「彼を口説け」ということになりまして、植田くんというプロデューサーと二人で毎晩、筑紫さんと密会を重ねました。

一ヶ月以上話し合って、何とか筑紫さんも「じゃあやるか」という気になってくれたんですが、ところが『朝日新聞』のほうが「どうしても筑紫を離してはいけない」と。「筑紫を社内にとどめる会」というような会ができたらしくて、社長以下一丸となって何とか止めようということになってしまいまして。筑紫さんも会社の仲間の情にほだされるというか、そういうところがありましたので、とうとうダメになりまして私もがっかりしてしばらくションボリしておりました。でも私がいまだに思うのは、夜10時台の番組をもし筑紫さんがやっていたとしたら、久米宏さんと対抗してどういうことになっていたのだろうかと今でも想像すると面白いことになったのではなかろうかと思います。

それ以降も、TBS報道局では「筑紫待望論」が強くて、色んな番組に筑紫さんを呼んでくれという声があがったんですが、89年に『ニュース23』という夜11時の番組が始まるにあたり、「どうしても筑紫さんでやらしてくれ」と現場から非常に強い要望がありまして、上層部のほうでは2年前のシコリというものが無いでもなかったんですが、ともかく現場のいうとおりにやれということで、再び話ができたわけです。

ものの本には、私と諌山くんという人がニューヨークに行って口説いたということになってますげど、実は赤坂の薄汚いバーで話はつけておりまして、どうも筑紫さんは奥さんの了解を得ないといけないと。それでニューヨークに行きまして、ホテルで奥様にも色々と話をして、やっと了解を得て帰ってきました。

番組が始まりまして、私もTBSの報道で色んな番組を立ち上げましたけれども、「いや、これはいける!」と。立ち上げがこんなに上手くいった番組というのはまず無いと。放送初日から異様な手ごたえを感じました。いい人を呼んできたなと私もうれしさがジワッとこみ上げてきたのが、ついこの間のように覚えております。

業界の常識で「6,7年は持つな」と思ったんですけど、とんでもない。20年近くも続いている。これは全く「化け物」とでも言ったほうがいいかもしれません。

予想以上にTBSで長くやっていただきましたが、残念ながらTBSの中から、筑紫さんの後を継ぐ人が出なかった。まあこれは、筑紫哲也という存在が大きすぎたせいであろうと私は思っております。そんなわけでありまして、私は筑紫さんを『ポン引き』した『ポン引き屋』としてですね、テレビジャーナリズムの世界の片隅に名前を残せるのは大変光栄だと思っております。

[スピーチ(2)]井上 弘・TBS社長

筑紫さん、日本記者クラブ賞おめでとうございます。

私自身は、実は『ニュース23』に何の関係もしたことはございませんので・・・番組は拝見したことはございますが、筑紫さんと面識をえましたのが恐らく13年か14年前で、お集まりの皆様のなかでは、私が一番新参者ではないかと思っております。それ以来、こういう包容力のある方ですので、「まぁ、しょうがないから付き合ってやろう」と思ってくださったのか、私のほうは勝手に可愛がってもらってると思ってですね、ずっと甘ったれてこの十何年間、親しくつき合わせていただいたと思っております。

ですが優れたジャーナリストであります筑紫さんとおつき合いをするのは、それなりに骨が折れることでございまして、まず第一にお目にかかるたびに「あいつは馬鹿だな」と、馬鹿はしょうがないとしても「ものを知らねぇな」と言われちゃうと辛いなと思いまして、筑紫さんとお話しするたびに、にわか仕込みで色々仕込んでいかないとダメだなと思うようなことが何度かございました。おかげさまで私の人生におきまして、『哲学をもつように』とか、そういったことには大変勉強になりました。ですから筑紫さんのおかげで50を過ぎてから少し自分なりに進歩したかなと勝手に思っております。

そんな筑紫さんが、今、闘病生活をおくっておられますが、闘病生活というのは人知れぬ不安や苦痛や苦労やいろんなことがおありだろうと思います。ですが、日本のジャーナリズムのためにも、またTBSの報道のためにもお元気で健康を回復されて、是非、我々をこれからも導いていただきたいと思います。本当に健康を回復されてがんばってください。そして、また元気な姿で私たちと一緒にですね、この前の『東京大空襲特番』もやっていただきましたけれど、闘病の合間にやっていただくというんじゃなく、合間に闘病するくらい元気になってやっていただきたいと思います。是非がんばってください。今日はおめでとうございました。

[謝辞]筑紫哲也

一年ほど前に病気になりまして、その後もテレビに時々出ているんですが、本番になる日に限って声がかすれるんですね。この歳になってまだそんなに緊張するのかと思っておりますが、今日は、特に今までやったことのないことをやっているわけでありまして、緊張はなおさらでございます。

やったことがないというのは、私は受賞してから今日に至るまで、今日お見えの方々を含めて本当に色んな方のおかげでここまで来れたのに、一度もきちんとお礼をもうしあげていないと、随分失礼な生き方をしてきたんだなと改めて反省をしております。

おまけに、1968年以来、誕生日を祝ったことがありません。68年に朝日新聞の特派員としてアメリカ統治下の沖縄に行きまして、いざ誕生日を祝おうと思ったらその日が『慰霊の日』で、今日もそうであります。『ニュース23』のスタッフは殆ど今日はいませんが、これは皆、沖縄に行っているからで、膳場さん目当てでおいでになった方は非常に申し訳ないんですが、膳場さんも沖縄におりまして、今日はいません。実物を見ると本当に綺麗な方です。

さて、きっかけは日本記者クラブ賞という思わぬ賞をいただいたことであります。もちろん賞をもらうのは自分個人の力だとは全く思っておりませんでして、私は活字の世界からテレビの世界に移った人間でありますが、その先輩がアメリカのジャーナリストにいまして、彼が自分がテレビの人間になったなと思った瞬間があるんだそうです。それはディレクターから「カメラさん!照明さん!音声さん!と言われて、その次にハイと言って『キュー』がきた」。つまり「俺は部品と同じなんだ。色んなもののひとつなんだ」ということを悟ったというんですが、テレビの世界はどこまで末端にいきましても『集団作業』でございます。皆で一緒にやらないと何ひとつできません。そういう意味でこの賞というのは、私と一緒に『ニュース23』をやってくれた人、それから今日お見えになっている皆さん、番組に出てくださった方、協力してくれた方、あるいはTBSというテレビ局、その系列であるJNNと非常に広い人たちの力でこの賞があったんだろうと、そのことを是非お礼申し上げたいと思いまして今日の会になった次第でございます。

授賞式でも申し上げたんですが、一番うれしかったのは『わが国の放送ジャーナリズムの確立に大きな足跡を残した』という表彰理由であります。テレビに対しては古いメディアから大変意地悪な見方がありました。「お前ら大メディアかもしれないけれども、ジャーナリズムの体をなしているのか」と。その中で、何とかそういうことを言われないようにやろうと努力して、『社団法人・日本記者クラブ』というところが、放送ジャーナリズムの確立ということをいわば「認知」してくれたわけですね。

本当を言うとさらにうれしいことがありまして、そういうテレビにもジャーナリズムを作ろうと努力した。その営みが視聴者の皆さんに支持されて、民間放送というのは非常に厳しい世界ですが、その世界で、はっきり言えば『商売になったこと』であります。18年以上もそういう番組を続けられたということが本当はとってもうれしいのでありまして、テレビ論の世界で、私が新しく持ち出した言葉に『生存視聴率』という言葉があります。つまり、番組が生き延びられる視聴率というのが午後11時なら11時にあるはずだと。それをクリアしない限り、いくら自分たちが「いいことをやっているんだ」と言っても、それは通らない訳でありまして、それが可能だったのはなぜかといえば、番組を作った人たちももちろんですが、見ていただいた方、番組に出ていただいた方、そういう色んな人たちの力でここまで来れたんだなとつくづく思います。

お聞きのように緊張していますとどんどん声がかすれてくるので、このへんでやめたいと思いますが、本当に大事な時間をさいていただいてありがとうございます。自分が主人公になってこういう会をやるっていうことをずっとやってこなかった人間です。次はないと思っています。一生に一度のわがままだとお許し頂きたいと思います。本当に今日はおいでいただいてありがとうございました。

[スピーチ(3)]中江利忠・元朝日新聞社長

さきほど、久木さんから筑紫さんがTBSへ移るいきさつのお話がありました。

私の前任者の一柳さんの時は、話がかなり煮詰まっていたところ、一声でアウトで、それから一年半後くらいですかね、私になって朝日新聞そのほかの反対を押し切って、送り込んだ張本人が私であります。色んな理由があったんですが、その時、彼から長文の手紙をもらいまして、その中に大変な『殺し文句』がありました。

「民放で『リベラル』を守っているのは、今のところ『テレビ朝日』だけである。そこに『TBS』というもうひとつのリベラルの旗が立てられれば、テレビ・ジャーナリズムの前途は明るいんだ」とそういう意味のことが書いてありまして、私もなるほどということで最後のゴーを出したわけであります。

筑紫君は25年にわたる国際政治記者、それから5年間の大変好評だった『朝日ジャーナル』の編集長、その後に『ニュース23』のキャスターとして大変な成果を挙げられたわけですけども、一貫して貫かれているのは、やはり『ジャーナリズム精神』だったと思います。ちょうど20年前、1988年に、彼がシリーズで書いた単行本を朝日文庫に移して出版しました。その中で彼はこういうことを書いていました。「政治を含めたシステムや大状況よりも、その前にこの世を律している制度ではないけれど、どうしようもない力で世の中を支配しているものがある。それは前者を『文明』というならば、言ってみれば『文化』になるのかもしれないけれども、この『モヤモヤした日本の文化』を、この際、徹底的に追求して新しい出口を見出さなければならない」という趣旨だったと思います。

この『ジャーナリズム精神』というものが、『ニュース23』の『多事争論』の中でも発揮されておりましたけれども、今回の日本記者クラブ賞受賞を機会に、一段と高い文明評論家として健筆を奮っていただければありがたいと思います。筑紫さん、今日はおめでとうございました。誕生日もおめでとうございました。これからますます元気になられ、読み応えのある文章を我々に読ませていただきたいと思います。

目玉オヤジ
「お次は、沖縄から手紙の紹介じゃ。」

©水木プロ

『沖縄・慰霊の日』の中継のため会場に参加できなかった『ニュース23』の後藤謙次キャスターからの祝辞。

筑紫哲也 様

日本記者クラブ賞受賞、そしてお誕生日おめでとうございます。

今日6月23日は沖縄慰霊の日であります。

筑紫さんにとってもニュース23にとっても、とても意味のある日ですが、またそこに新たな1ページが加わった思いです。つくづく「23」という数字は筑紫さんと深く強く結ばれているのだなあと感じております。

今夜は膳場さんと沖縄からオンエアします。「23スピリッツ」「筑紫スピリッツ」の継承・発展をお誓いし、筑紫さんの受賞を心からお祝い申し上げます。

那覇にて 後藤謙次