6.23記念パーティ

日本記者クラブ賞受賞記念〜筑紫哲也を囲む夕べ

2008年6月23日(月)
於)日本プレスセンタービル内アラスカ

[スピーチ(4)]野中広務・元官房長官

筑紫さんとのご縁をいただいて、今日こうしてこの席に呼んでいただいて誠に光栄に存じております。筑紫さん、本当に日本記者クラブ賞受賞おめでとうございます。残念ながら病気をされて、『ニュース23』を降りられたわけでありますけれども、私はいまだに『ニュース23』を眺めながら、筑紫さんとの長いご縁を振り返って、感謝しており、特に私がやっております重度障害者の施設をずっとこまめにインタビューしてくださったこと。あるいは、私のふるさとの喫茶店でコーヒーを飲みながら話したことなどを思い起こし、ある日は、瀬戸内寂聴さんと三人共通の小さな天ぷら屋を持っておるこの思い出が、年を重ねるたびに熱い思いがこみ上げてくるわけであります。あの喫茶店も道路の拡張で立ち退きになりまして、私の家も立ち退きになりまして、今は京都の小さなマンションで女房と暮らしております。

筑紫さんは、世の中を達観されていると思いますけれども、たまにはテレビに出て、以前のように警鐘を鳴らしてくださらないと『小泉改革』などという美名の下に日本は縦から横からずべてが粉々にされてしまいます。これを取り戻す責任は、私はやっぱりマスコミの皆様方の大きな責任だと思っております。もう政界を引退しましたので誰に遠慮をすることもございませんけれども、こういう中で、このごろのテレビのあり方は、必ず子供を犯罪に導き、また秋葉原のような事件を起こして平気になってしまう。

そして、都市農村の格差はより拡大し、人間の心がすさんでしまうような世の中を作ったことを、もちろん政治界はその基本でありまして、菅先生も今日は来ておられますけれども、我々は与野党を問わずに皆が日本の国のことを考え、さらに日本の国民のことを考える政治を取り戻してほしい。それは筑紫さんが、もう一度自分の言葉で話してくださることだと願っております。筑紫さんが言われると、少々憎いことを言われても文句を言う気にならない、そういう存在であったことが大きいと思うわけでございます。

我々は、再び筑紫さんが画面に登場してこの国を思い、この日本民族の将来にかけてはつらつとして発言してくださることを心からお祈りします。限りない発展とご健勝をお祈りいたしましてご挨拶といたします。おめでとうございます。

[スピーチ(5)]菅直人・民主党代表代行

本当にそうそうたる皆さんの中で、私もこういう機会を与えていただきましてありがとうございます。

筑紫さんは高校の先輩にも当たりまして、最初に名前を知ったのは筑紫さんが『朝日ジャーナル』、あれ副編集長の時代でしょうか、その時代でありました。76年のロッキード事件のときに、初めて衆議院に出たんですけれども、ちょうどある論文を書いておりまして、『朝日ジャーナル』に載っけてもらえないかなということで、私の仲間が持ち込んでおりました。感触はよかったといわれたんですが、選挙戦に入っちゃったものですから結局ボツになったのかなと思っておりましたら、何と選挙戦の真っ只中に私の論文が『朝日ジャーナル』に載せていただきまして、『否定論理からは何も生まれない』という題でありました。多少言い訳的にほかの候補者のこともちょっと紹介はありましたけれども、もしその選挙で私が当選していれば、一人の候補者だけに肩入れしたということで、筑紫さんはクビになったんじゃないかなと思いますけど、たぶんその時は、間違ってもまだ当選はしないだろうという確信のもとに私の論文を載せていただいたのかなと。しかし、おかげでといいましょうか、そのときは次点で終わりましたけれども、その後当選できたのも、そういう筑紫さんのある意味での私やそういう考えを持つものに対する応援の気持ちだったのかなと、こんな風に本当に思っております。

また最近では昨年、何度か夜の2時、3時まで都内のとあるバーで二人だけでかなり激しいバトルとでもいいましょうか、議論をいたしました。今だからもう申し上げても問題ないと思いますが、東京都知事選挙になんとしても筑紫さんが出ていただけないか。私も自分が言ったら筑紫さんのことだから「何言ってるんだ。お前が出ろ」とこう言われるんじゃないかと恐る恐る言ったんですが、案の定そういう言い方をされまして、苦戦をいたしました。そこで最後にひとつ殺し文句を私も考えまして、その殺し文句がかなりいいところまでいったんですね。どういう殺し文句か。つまりは「石原さんがこれ以上知事を続けることが、そういうことを意味するかは、それは筑紫さん、筑紫さんの世代の世代のとしての責任もあるんじゃないですか」。こういう風に言いましたら、筑紫さんが「うーん」と唸られまして、シメシメこれで何とかなるかなと考えていたんですが、結果的には「ジャーナリストとしての仕事を全うしたい」ということで実現しませんでした。

そんな中で、筑紫さんが今回、日本記者クラブ賞を受けられたということですが、私は感想をあえて申し上げれば、テレビの筑紫さんではありますけれども、やっぱり活字の筑紫さんというものがテレビの中で生きていると、そんな感じがいたしまして、これからもテレビにもちろん出演して大いに論陣をはっていただきたいと同時に、活字の中でもですね、これからも私たちのある意味でのいいアドバイザーとして活躍されることを本当に心から期待をいたしまして、私のお祝いのご挨拶とさせていただきます。本日はおめでとうございます。

今日、会場の端々でいろいろ話しまして、今、日本という国が本当にガラガラと崩れ始めている。そういう状況の中で、筑紫さんの『ニュース23』が、番組自体は続いていますけれども、筑紫さんの23が無くなったということは、ものすごく大きなことでして、日本の将来にとっても非常に困ることだと思います。ですから、また何らかの形で放送だけでなく、活字も含めて筑紫さんが第一線に復帰してらっしゃることを期待して皆さんと乾杯したいと思います。乾杯!

[スピーチ(6)]ジャーナリスト・鳥越俊太郎氏

鳥越です。筑紫さん、日本記者クラブ賞おめでとうございます。

私、筑紫さんによく間違えられましてね。ついこの間も、「あっ筑紫さん!」と一瞬息を呑んで、「あっ鳥越さん!」と言われたことがありまして、なぜかここ10年来、街へ出ると筑紫さんと間違えられることが多くって。私は筑紫さんとは全然似てないと思うんだけどね。でも一般の視聴者のイメージからいうと、どうもよく似ているらしいと。

それは私の生まれたところと筑紫さんの生まれた日田は、わずか20数キロしか離れていない。それから新聞記者をやってた。海外特派員もやったし、週刊誌の編集長もやった。しかし、あんなに筑紫さんほど髪が白くないんだけどね。(笑)筑紫さんを鳥越という人はいなくても、私を筑紫さんと間違える人はいっぱいいるということがずっとありました。

で、わたしは1989年に『毎日新聞』を辞めて、『テレビ朝日』の『ザ・スクープ』という番組にいきました。その同じ年、同じ月に筑紫さんは『朝日新聞』を辞めて『TBS』にいかれた。だから資本系列でいうと、ねじれたわけですね。それで、私は『ザ・スクープ』という番組をやりながら、筑紫さんの姿をずっと見続けてきました。

恐らく筑紫さんは同意していただけると思いますけども、筑紫さんの存在というのは、89年にベルリンの壁が崩壊する。これが象徴するように、それまでの東西冷戦が終わり、その後、ソ連が崩壊し、世界中の価値観が混迷の時代に入りました。当然、日本でも依然として自民党はあるものの、民主党やそれから社会党は今の社民党で小さくなっちゃいましたが、世の中の事象のなりの物事を考える時の座標軸が、なんとなくわかりづらい。それまではわかりやすかったものが、なかなかわからなくなってきた。そういう時代に、筑紫さんはテレビに登場されて、筑紫さんが一貫してものを言ってきたことは、『日本人の座標軸、自分たちはどこにいるのか』。もっといえば、ひょっとして『日本人の羅針盤』であったかもしれないし、『南十字星』であったかもしれない。筑紫さんを見ることによって、自分の立ち位置をそれぞれの日本人一人ひとりが、『右』も『左』も含めてですよ、皆それぞれ自分を決める座標軸、日本人の座標軸であり続けた人だったと思います。日本の政治や経済や社会やいろんなことは、筑紫さんの言葉を耳にして、筑紫さんの『多事争論』を聞いて、物事を考えてきた。そういう時代を私たちはこの18年間、共に過ごしてきたんです。

ところが、私は2005年に大腸がんになりました。そうしたら、先ほども言ったように筑紫さんと私は間違えられやすい。私と同じように筑紫さんも、がんになってしまいました。生まれも九州で同じ、たどってきた人生の経緯も同じ、やってることも同じ、病気も同じということになる。ただ、私は筑紫さんのように皆さんに座標軸を提示するようなことはとてもできませんでしたが、いつも筑紫さんの仕事を思い、尊敬してきました。

私より5つ年上なんですよ。筑紫さんのことを自分の兄だと思い、その影を追いかけてきたという思いがあります。この春で番組から筑紫さんの冠がとれましたが、『筑紫哲也のDNA』は、何としてでも引き継いでやっていただきたい。それが、いち視聴者、いち日本人、筑紫哲也の長年のいちファンであり友人でもある鳥越俊太郎の心からの願いです。

[スピーチ(7)]ジャーナリスト・田勢康弘氏

田勢康弘です。鳥越さんから5年下ると私の年になります。 筑紫さんは政治ジャーナリストとして極めて珍しい人でした。殆ど派閥の匂いのしない人で、1972年に初めて私は顔を拝見したように記憶しているんですけども、総理大臣官邸の記者クラブは、『朝日』と『日経』は背中合わせなもんですから、これがワシントンから帰ってきた人かと思いながら眺めておりました。筑紫さんが原稿を書いているのを殆ど見たことがないんですね。この人は何をしてるんだろうかと。

しかし36年たって気がついてみたら、ちょうど10年遅れで、私は筑紫さんの真似事をして歩いてきたんだなと、そんな感じがしております。

今日は、実は挨拶を頼まれてどういう格好でいこうか私なりに考えて、実はこれ今日、『沖縄・慰霊の日』なので、沖縄のTシャツなんです。

今、筑紫さんから引き継いで早稲田の教壇に立っておりまして、何としても筑紫さんの残したものを引き継いでいきたいと考えております。

「映像、テレビ・ジャーナリズムを確立した」という日本記者クラブの表彰理由だったんですけど、新聞記者として、とりわけ政治記者として筑紫さんが残したものは本当に大きいと思いますね。いろんな意味で、活字人間として私たち後輩は、筑紫さんを見ながら今まで育ってきたように思います。とりわけ私はデービッド・ハルバースタムというジャーナリストの存在を筑紫さんの翻訳によって知ったものですから、いまだに筑紫さんが翻訳された『メディアと権力』という三部作は、我々ジャーナリストにとって、これ以上の教科書はないという中身の濃いものだと思います。その訳者あとがきのなかで、筑紫さんはこういうことを書いてます。

1983年ですね。

「ハルバースタムは、優秀で良心的なテレビ人が、上層部の日和見主義、会社の商業主義と葛藤するところを随所で描いているが、報道番組がそうやって虐待される大きな原因のひとつは、それが金を稼ぐ娯楽番組を削り、一方では、報道番組が金をくうばかりで稼がないからだ。この事情は、日本では今も変わらない。80年の米CBCテレビの『60ミニッツ』から始まったブームはこの図式を変えた。報道番組は、作りようでは面白いし、しかも金になる。この発見は報道番組ブームを過熱させることになった」

これはアメリカのケースですけども、昨今の日本では『報道』の名を付けたワイドショー的な番組が大変増えております。私もその一部を4月からやっておりますけれも。しかしながら、本当にジャーナリズムに値するといえるような番組を我々は作っているのだろうかと。

新聞が影響力を落としている今日、テレビ・メディアに対する期待、責任の重さは申し上げるまでもないと思います。筑紫さんが築かれたものを我々が引き継ぎながら頑張って行きたいと思います。いつまでも我々後輩の面倒をみていただくようにお願いをいたします。

本当におめでとうございました。筑紫さん以上に喜んでおります。長いこと私は、日本記者クラブ賞に筑紫哲也の名前がないのは筑紫さん本人が断っているんだろうとずっと思っていたんですね。あらゆる賞は一切受けないという人なので。その賞を私も12年前にもらってしまったので、大変後ろめたい気持ちでありましたけれども、今日はじめて私も自分のことを喜べる、そんな心境になりました。

[スピーチ(8)]作家・堺屋太一氏

平成になって筑紫さんの番組が始まったと思います。それから日本はあまりいいことはなかったような気がします。番組は最高でした。ちょうど筑紫さんがおやりになった時代、この18年間はまさにテレビの報道番組の一番頂点だったのではないかと思います。今後、これを上回るようなものが出てきてほしいと思います。

10年前に私は『平成30年』という小説を書きました。20年先の日本はこうなっているだろうということを見通してですね。その上巻が『何もしなかった日本』なんです。つい去年、ちょうど半分たって平成20年になって、見直してみたら、『何もしなかった日本』よりも何もしてないということがわかりました。実に日本という国はこの10年、何もしなかったんだなと感じられました。

そればかりか20世紀になってからどんどん官僚統制が強くなっている。恐るべきことですよね。たとえば建築基準法の問題でも、あるいは金融取引法の問題でも、医療の問題。20世紀はお医者さんは余っていたんですよ。それが急に今、お医者さんが足りなくなる。これはいろんな通達、厚労省の通達なんかが出たからですね。

そのほか最近は、後部座席までシートベルトをしなければいけなくなって、傘さして自転車に乗っちゃいけなくなって、パチンコも規制されて、どんどん官僚規制が強くなってるんですね。

平成の前半は規制が弱くなって、自由市場経済になって、そして格差問題じゃなくセフティーネットといったんですね。セフティーネットがあって、市場経済といったのが、いつの間にか格差問題になってどんどん規制が厳しくなってきた。その間に日本の経済はどんどん遅れていきました。20世紀の最後の年には、日本は1人当たりの国民総生産で世界3位だったんです。今や18位ですよ。この貧しくなり方というのは凄いですね。

また外国へ行ってテレビを見てますと、日本ほどアホ番組をやっているテレビはございません。だから中国で娯楽番組は放送しないと決めたら、日本の放送は全部アウトですね。英語もドイツ語もロシア語もフランス語も全部まじめな番組あるのに。これはいったいどうしたことか。本当に銭になるような話題、技、そういったものを日本は失いつつあるのではないかと思います。

私は皆さんがたの中から、どうか筑紫哲也を上回るジャーナリスト、テレビ・ジャーナリストが出てきてほしいと心から思ってます。筑紫さんを崇めるだけではなくして、踏み台として明日のテレビ番組を作る有志がでてきてくれることを祈りたいと思います。恐らく筑紫さんも自分を超える後輩がほしいと思うんですね。だから、本当に世界を相手に頑張るテレビキャスター、プロデューサー、ディレクターが出てくることを祈りたいと思います。

筑紫さん本日はどうもありがとうございました。

[返礼]筑紫哲也

いや、これ以上申し上げることはございません。大変いい最後のスピーチだったと思います。ありがとうございます。

[締め]神谷哲史・TBS報道局長

『ニュース23』にちなんで、23秒間の盛大な拍手の呼びかけで、大きな拍手のなか筑紫氏が退場。