西川美和 過渡期を生きる女性たちⅢ
2012/12/02
撮る=搾取
(西川)
フィクションの劇映画は、スタートからカットまでの間がその時間。そしてプロの俳優は是非とも撮って下さいという人である、という大前提がありますから、共犯関係が持てるんです。
ですがドキュメンタリーの場合、カメラが回っている間は、-私の感覚ですが-、カメラを向けている相手は、作り手にとってある意味“ネタ”です。汚い言葉ですけれどもメシの種になっている“素材”ですよね。だから、カメラを、こちらの作為を同じように理解していない人に対して向けるという事に対して、「搾取している」という背徳感が拭えないんです。そこがクリアできないんです。インタビューはまだなんとかいけるんですけど・・・。その人の日常に入り込んだり、その人のありのままを引き出そうと思って、カメラの横で「私はあなたの親友であなたの事を理解している」というような顔をするとろがすごく嫌なんです。だって、私が本当にその人の友人だったら、そんなに一方的にその人の日常にカメラを向けないですから。そこがクリアできないので、ドキュメンタリーでカメラを回すということに対して抵抗感があるんです。
でも実は、私が日常的にやっている事はドキュメンタリーを撮っているのと同じで、自分の肉眼をカメラにしていろんなものを観察し、脚本を書く時に素材として吐き出しているんですよね。だから機材を使わずに搾取をしているといったらそうなんですけれど。
(金平)
人をカメラで撮影することの意味というか、いま、“搾取”という非常に強い言葉を使われていましたが、ものすごく大事な事を指摘されていると思うんです。カメラで撮影すると言う事は、ある意味“奪う”ということですよね。
(西川)
はい。“取る”ということですよね。
(金平)
作っている人たちがそれをどれだけ自覚しているかという問題があります。報道ドキュメンタリーにはある種の建前があります。大義があるんです。撮影したものを公的な知恵として役立てる、というような。だから被災地に行って悲嘆に暮れている人達をカメラで撮ってきても、それは、その事実を世の中に知らしめるためなんだと。
それによって、被災地で起きていることの重みをみんなで共有するためなんだという、そういう意味があります。でも一方で、そうではないものもあります。“一方的に奪うだけ”のような。
最近感じたことと重なったものがありました。「ドコニモイケナイ」という映画があったんです。インディーズの人が作った映画で、渋谷のストリートミュージシャンを追ったものです。2001年だったかな、アメリカで同時多発テロが起きた頃、渋谷のハチ公前にストリートミュージシャンが出てきてワイワイやっているのを、日本映画学校の学生さん2人が撮り始めるんです。「社会的な現象で面白いな」と、「これが時代だ」と、彼らはそう思って追いかけ始めたんだと思います。
そこに佐賀県から上京してきた女の子がいます。ストリートミュージシャンだから歌っているだけなんですけれど、すごくピュアな感じの当時20歳そこそこの人だったかな。その子が、僕から見ると「何やってるんだよ」と思ってしまうような感じなんです。「夢はいいけど、家出してきてラップ歌って、そうじゃないだろう」「ちゃんとお母さんいるんだし、働けよ」って、そう思ってしまうような子なんです。
ところがその学生さんたちがドキュメンタリーを撮り始める。そうなると撮られる方も意識し始めるんです。それで芸能事務所みたいな所に行っちゃう。でも誰が見てもたぶんダメなんですよ。客観的に見てこの子はダメなんだろうなという感じ。それで結局うまくいかなくて、彼女は泣いたりするんですが、それを全部カメラで撮っているんです。そうやって1年くらい撮っているうちにその子が統合失調症になってしまうんです。現実が辛すぎて耐えられなくなってカメラの前で壊れちゃう。意味不明な言動をしたり。
それを、「なんでこんなの撮るんだ」って腹立ちまぎれに見ているんですけれど、変調をきたすというのを見てしまうと目が離せなくなる。ものすごく残酷な事を言うんですが、その女の子がどんどん狂っていくのが分かるんです。結局その子は入院し、お母さんが1人だけいる故郷の佐賀県に帰ります。
ところがその撮ってきた人達がずっとある種の「罪の意識」を抱きながら生きてきたんですね。つまり、自分たちが撮ったことで、彼女の一生をめちゃくちゃにしてしまったのではないかというような思いが残っている。それで10年ぶりくらいに彼女の故郷の佐賀県を訪ねて会いに行くんです。そしたら彼女は以前と比べるともちろん安定はしているのですが、やはりまだ闘病中で苦しんでいるようなのです。
(西川)
そうなんですか。
(金平)
10年の月日が経っていますから30代になっているんですが、彼女の中には、20歳の頃のその時の状況がある意味ピュアなまま残ってしまっているんです。佐賀県だから、一番近い都会である福岡でまた歌ったりするんです。
その映画を観て、撮るという行為が“搾取”というか奪ったりすることについての意味、重大さを、ものすごく感じました。その映画は映画作品としては優れたものではないかもしれないけど、1人の本当にピュアな女性が、撮られる事によって映像の中でどんどん狂っていくという・・・。それを見て重すぎるものを感じて、いまだに引きずっているんです。
(西川)
そうですね。撮られると、どんな人でも演じ手になっていくという部分がありますよね。撮り手と撮られる側がいい意味で共犯関係になれていく場合もあれば、人生を崩してしまう場合もあるでしょうね。
(金平)
共犯関係にうまく乗れる人だったら病気にはならないんでしょうけどね。でも彼女は、どんどん壊れていってしまう。そこには、先ほど仰った「撮る」=「取る」という怖さがあります。普通の人は、役者さんみたいに強くないですしね。
(西川)
そうですね。
(金平)
何だか深刻な話になっちゃっいました。でもこれは非常に普遍的なテーマです。
是枝監督に一番最初に会ったのは、どういうきっかけだったんですか?
(西川)
「映画の世界に入りたい」と思って、大学4年の春に調べたんです。どこかに就職して映画の仕事ができたらいいなと思ったんですね。
でも、当時、15年くらい前ですが、映画産業がガタガタで、大手も映画を作るための社員としての正式な採用はほとんどしていなかったし、制作会社も新卒採用をするシステムを取っていなかったんですよね。配給会社、宣伝会社、字幕制作会社など全部調べましたが、全く採用のあてがありませんでした。
それで、テレビとかCMとかきちんと経済が回っている映像産業の中に入ろうと思ったんです。いつか映画の世界の人に巡り会えるかもしれないし。そう思って、テレビマンユニオン※注③の採用試験を受けました。そしたらそこで、面接官をやっていらっしゃった是枝監督にお会いしたんです。
是枝さんには、「入社したら何をやりたいと思っている?」って聞かれて、映画をやりたいって答えました。結果は不採用だったのですが、その頃、是枝さんは「ワンダフルライフ」という2作目の準備をされている時で、一般の人にもリサーチをかけて脚本を書こうと思っていらっしゃいました。そのリサーチ部隊として私を引っ張って下さったんです。
リサーチはこういうものでした。お年寄りなど何百人もの人に街頭で、「あなたが天国にたった1つ、生きていた中での思い出を持っていくとしたら、どんな思い出がいいですか?」と聞くんです。それをインタビューしてその中で面白い人をピックアップして、シナリオに反映させたり、もしくは本人を出演させたいということでした。
リサーチ部隊にはフリーランスで良ければという条件で入ったんですが、それが最初でした。
(金平)
ある意味、ラッキーでしたね。
(西川)
ラッキーでしたね。
映画監督のそばで仕事ができるとは思っていなかったですから、こんなに嬉しい事は後にも先にもなかったと思いますね。
(金平)
是枝さんの手法は、昔のTBSでやっていた「あなたは…」※注④みたいな、“インタビューだけで構成するもの”とか、そういうことに対して方法論的に自覚的だから面白いんです。それを映画の導入として使ったりモチーフとして使ったりする方法は、たぶんテレビドキュメンタリーとしてのもう1つの面があるからやってみようと思ったのではないでしょうかね。
(西川)
そこで私は初めて“カメラをかついで一般の方にマイクを向ける”という事をやったんですが、その時にアレルギーが出てしまったんです。面白い事もたくさんあるけれど、撮られることを楽しんでくれる人もいれば、すごく怖がって嫌な時間にさせてしまう場合もある。それは画面の前で見ているだけでは分からないことでした。その時、“人を撮る”ということはどういうことかってことを実感したんだと思いますね。
(続く)
※③1970年、東京放送(現・東京放送ホールディングス)を退職したディレクターらが設立した番組制作会社
※④テレビマンユニオン設立の中心となった村木良彦さんが、TBS時代に、同じくテレビマンユニオン設立の中心となった萩元晴彦さんらと共同演出した作品
西川美和(にしかわ・みわ)
1974年、広島県出身。大学在学中に是枝裕和監督作『ワンダフルライフ』(99)にスタッフとして参加。02年、『蛇イチゴ』でオリジナル脚本・監督デビュー。同作品で第58回毎日映画コンクール脚本賞ほか数々の国内映画賞の新人賞を獲得。長編第二作『ゆれる』は第59回カンヌ国際映画祭監督週間に出品され、国内でロングランヒットを記録。09年、長編第三作目となる『ディア・ドクター』は第33回モントリオール世界映画祭コンペティション部門に出品、第83回キネマ旬報ベスト・テン作品賞(日本映画第1位)、第33回日本アカデミー賞最優秀脚本賞など数多くの賞を受賞。今年公開となった四作目の長編映画『夢売るふたり』は第37回トロント国際映画祭に出品された。その他小説作品に「ゆれる」「きのうの神様」「その日東京駅五時二十五分発」などがある。
(聞き手)
金平茂紀(かねひら・しげのり)
1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。
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