23時の記憶

第1回 2008.8.29「ROLLING STONES」

吉岡 弘行(WEB多事争論編集委員)

「I WAS A BUTCHER CUTTING UP MEAT
MY HANDS WERE BLOODY I’M DYING ON MY FEET
I WAS A SURGEON TIL I START TO SHAKE
I WAS A FALLING BUT YOU PUT ON THE BREAKS
HEY! HEY! YOU GOT ME ROCKING NOW」
俺は肉を切り刻む肉屋だった
手は血だらけで、立ったまま死にかけてたんだ
俺は手先が震えるまでは外科医だった
堕ちていく俺におまえがブレーキをかけてくれた
ヘイ!ヘイ! おまえは俺に火をつけた」)

1994年にリリースされたローリング・ストーンズの『VOODOO LOUNGE』(ヴードゥー・ラウンジ)。
『YOU GOT ME ROCKING』(ユー・ガット・ミー・ロッキング)はこのアルバムに収録されている。
さまざまな局面で辛酸をなめ、挫折を経験した者ーーーそんな大人の男を奮い立たせてくれる文句なしの「名曲」である。
かつて渋谷陽一氏が、「ストーンズの曲はたいてい聴いていると自然と腰をふりだしちゃうんだよね」とコメントしていたが、この曲もそうしたストーンズならではのグルーヴ感にあふれた素晴らしいナンバーに仕上がっている。

1990年の初来日以来、彼らのライブを見続けている私にとって、この曲には特別な思いがある。ビル・ワイマンの脱退があり、このアルバムから、マイルス・デイビスやマドンナのベースを務めたダリル・ジョーンズが加わったことも特別な理由の一つだ。
好きな音楽のカテゴリーでいえば、私にとって「ROCK=ストーンズ」「JAZZ=マイルス」「POP=マドンナ」であり、特にJAZZなど、マイルスと彼から派生したミュージシャンを聴いていけば、至福の時をすごせるからである。

「金平さんは、『ニュース23の編集長をやってきて辛いことばかりが思い出される』と言って、10個くらい辛かった記憶をしゃべって番組を去られました。けれども、私は全く逆です。『23』にいた5年半は、楽しかった思い出ばかりですーーー」
2003年8月1日、金曜日の深夜。 放送終了後に赤坂のイタリアンレストランで開かれた歓送迎会で、番組を去りゆく者として、私はこんなふうにしゃべり始めていた。

「23」の歓送迎会は、金曜の深夜から未明にかけて開かれる。
土・日に地方での仕事が入っていることの多い筑紫さんだが、スタッフの歓送迎会を欠席したことはない。律儀なのだ。
この日は、筑紫さんばかりか奥様までいらしてくださり、私とともに番組を卒業する田中龍男プロデューサーの労をねぎらってくださったのだった。

「おいっ、吉岡!ようやっと異動が決まったぞ。『23』だ」
私が「筑紫哲也ニュース23」に加わったのは、98年の1月末だった。
夕方のニュースが終わって、杉崎一雄・社会部長(当時)から突然、告げられたのだ。
当時、「ニュース23」のデスクだった佐々木卓さんが編成局に転出することになり、それを補充するかたちのイレギュラーな異動だった。
88年の入社以来、社会部にいて、95年ごろから「そろそろ番組に出てモノづくりをしたい」と希望を出していたのだが、なかなか実現せず、入社10年目にして初めての異動だった。

「23」では、まずディレクターとして修業を積み、翌年の99年夏から金平茂紀さん(現・アメリカ総局長)と編集長を組んだ。
当初、私は金曜日のデスクで、独自色を出そうと「サブカルチャーやアンダーグラウンドなネタ」を取り上げる『Five Minutes』なんてコーナーも立ち上げたりした。
2000年の5月から月曜と火曜日を金平さん、水曜日を高田直さん(現・「朝ずばっ」プロデューサー)、木曜と金曜日を吉岡が担当するというシフトになった。
文字通り世紀をまたいで筑紫さんのもとで番組作りができたわけで、偶然とはいえ何物にもかえがたい経験を積ませてもらったと心底思っている。
95年の阪神大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件をへて、この時期は、小泉首相の登場と靖国・北朝鮮問題、有事法制の整備、アメリカ同時多発テロとイラク戦争、台湾大地震、和歌山カレー事件などなど国内外でエポックメイキングなニュースが相次いだ時期だった。

30代の半ばでエネルギーが有り余っていたのだろう。
私は二曜日の編集長をするかたわら、筑紫哲也、草野満代、佐古忠彦という三人のキャスターと国内や海外を飛び回って企画を作ることに大きな喜びを見出していた。
編集長を務める日は、一日中、デスク席に「はりつけ」である。よって、非番の日を利用してリサーチ取材を行なわなければならない。そして、綿密にスケジュールを組んだうえで、キャスターを伴ってVTRを回していく――――結構大変な作業なのだが、これがまた楽しかった。
筑紫さんは円熟味を増し、私と同世代の草野さんと佐古も一人前の報道キャスターになろうと闘っていたことも大きかった。
そうした取材を、私は『利権』と言ってはばからなかった。
『ユーロ利権』『9・11利権』『台湾利権』などと称しては、味をしめたテーマについて、いろんな切り口で「企画書」をだして番組に仕立てていったのだ。
筑紫さんは、そんな私を「君臨すれども統治せず」「やったもん勝ち」といって大いに支持してくれた。私も筑紫さんの「懐の深さ」に応えようと必死だった。

さて、今回のテーマ、「ROLLING STONES」である。
手元に2003年1月31日の「ニュース23進行表」が残っている。
ざっとこんな感じだ。

編成枠[23:30:30〜24:31:55]
編集長[吉岡 弘行]
01:あいさつ(0 - 40)
02:★小泉首相の演説より元気が出る「Rolling Stones」独占Live&Interview!
 A)アバンVTR+リード(1- 20)
 B)本編VTR(13 - 00)
 C)受けコメント(0 - 30)
03:★最悪失業率の中、小泉首相が演説
 A)リード(0 - 10)
 B)本編VTR(3- 00)
 C)官邸担当=日野記者に聞く(2 - 20)
04:★対イラク攻撃着々・・米英首脳会談へ
 A)リード(0 - 20)
 B)DC=金平記者リポート(2 - 00)
05:皇太子妃の主治医が補助金流用(3 - 00)
06:NEWS INDEX(2 - 10)
07:スポーツ(8 - 00)
08:最後のニュース&週末の天気 
09:金曜深夜便「Stones Special」(9 - 55)

実際には、この進行表にコマーシャルや担当ディレクターの名前、出稿先(政治部とか社会部)などが挿入されている。
ストーンズの単独インタビューは金富隆ディレクター(現・イブニング5)が持ち込んできたネタで、シカゴまで草野キャスターと「弾丸ツアー」で出かけて撮影にこぎつけたものである。
番組予算逼迫の折、取材を許可した当時の田中龍男プロデューサーも「懐が深かった」。

「23」の「進行表」は、「0版」と呼ばれる「たたき台」をまず編集長がつくる。
当日のNHKのお昼のニュースが終わって、報道局のセンター・テーブルでネタ会議が開かれたあとに若干の修正を加え、筑紫さんのもとにFAXでおくるのが慣例だった。
この「0版」を見ながら、編集長と筑紫さんが電話でやり取りをしてその日のメニューが練られていく。

筑紫さんから「今日は、この項目にちなんだ『多事争論』をしゃべるから、項目をこうしよう」という提案があったり、こちらから「今日の一項目目はこういうこだわりで、こんな視点でカメラを出してます。誰々さんをゲストに呼んで展開しますんで、今日の『多事争論』はナシでお願いします」などと中身を詰めていく。番組名に「筑紫哲也」が入っていたのは、そういうキャスターと編集長の間で毎日繰り返される作業も含んでの「こだわり」なのだ。
ただ、よっぽどでない限り、「このメニューはおかしい」とか「何でこのネタが入っていないんだ」なんてお叱りを受けることはなかった。

筑紫さんの番組冒頭のあいさつやVTRの受けコメントも含めて、乱暴な言い方だが『多事争論』以外は、「私の好きにさせてくれた」。
しかし、何回も編集長をやっていると、時には激しい議論になることもある。
「弱者への視線を著しく欠いたとき」「権力にこびたとき」「ポーズだけの反権力の姿勢をとったとき」――――そうした局面での筑紫さんは本当に怖い。自らの未熟さを痛感することも多々あり、そんなエピソードもいずれ記そうと思う。

ストーンズの特集をどう放送するかについても筑紫さんとちょっとした議論があった。
そうそう、日本ではこの秋にオスカー監督のマーティン・スコセッシが撮ったストーンズのドキュメンタリー映画が公開される。ゴダールの作品もすごかったが、スコセッシはどんなストーンズを見せてくれるのだろうか?今から待ち遠しい限り・・・おっと脱線、話を2003年1月31日のオンエアに戻そう。
「9・11同時多発テロ」から「イラク戦争」へと向かおうとしていた米国と英国、そしてそれに追随する小泉政権・・・・。小泉首相は、この日、国会で大演説をぶった。
そんな状況の中では、ストーンズへのインタビューでも「戦争」というテーマに切り込まざるをえない。
2002年は、彼らのキャリアの中で結成40周年という大きな節目であり、年明けにセッティングされたインタビューでは、過去と未来のバンドの活動について大いに語るというのが本来の主旨だった。 ストーンズは「9・11」や「戦争に突入する米国」をどうみているのか?


初来日のチケット

逆に言うと、この質問が却下されたらニュース・バリューは著しく下がってしまう。 (個人的にストーンズが日本の一ニュース番組にインタビューを許すというのは、それだけでもニュースに違いないが、当時は「平時」ではなかった) 結果は杞憂に終わった。草野キャスターの政治的なインタビューにストーンズの面々は堂々と答えてくれたのだ。

ミック・ジャガー曰く―――

「平和主義者はおよびじゃないようだね。アメリカはイラクの政権を交代させる理由を十分説明していない。欧米は石油資源があるから常に中東を支配しようとしてきた。でも、これは単なるパワーポリティクスだし、イラクに対する攻撃は中東を安定させるかもしれないが、かえって状況を混迷させるかもしれない」(恐ろしいまでの洞察力ではないか)

キース・リチャーズ曰く―――

「アメリカ人は冷静さを失っているね。確かに彼らはテロの攻撃を受けた。でも俺たちイギリス人は第二次世界大戦中にナチスの攻撃を受けていたんだ。攻撃を受けることは決して特別なことじゃない。俺は『アメリカよ現実へようこそ』と言いたいね」

ロン・ウッド曰く―――

「いやだね、考えたくもない。みんな戦争なんてやめればいいのに。戦争ではなく音楽を作ろうじゃないか!」

ミック・ジャガーと草野キャスター

「静なるストーン」チャーリー・ワッツは、あまりこの問題について語りたくないようだったが、取材を終えた金富ディレクターから報告を受けた時点で私の腹は決まっていた。「今だからこそ、ストーンズで番組を大展開しよう」と。
田中プロデューサーは「せめて今日のニュースから、番組をスタートさせない?」とやんわりと話してきた。たぶん、報道の幹部からもそういう声が上がったのだろう。
私は「突発事件が起きたら、その項目をトップにはります。今日の小泉首相の演説を聞くに、ストーンズの戦争観・平和観のほうがニュース・バリューが高いと思います」と少々ムキなって言い返した。
筑紫さんでさえ「思い切った構成だけど、どうかなぁ。まあ、どうせやるなら『毒皿』(毒を食らわば皿まで)という手もあるか」と懸念していた節があった。
しかし、最終的には2人とも「私の好きにやらせてくれた」。

赤坂の送別会でこのメニューのことが話題にのぼった。
筑紫さんが「吉岡の編集長で印象に残っていることがある。ストーンズを大展開した日のことです。私も長年この番組をやってますが、かつてあんな献立を組んだ編集長を見たことがない。誰があんな大胆なことをやる?彼らしいエディットだったと思います」と話してくれたのだ。
「23」にいて、最もうれしかった瞬間の一つである。

この送別会の翌週から、私は「ニュースの森」の編集長に横滑りし、「社会部デスク」を経て、ある日を境に『YOU GOT ME ROCKING』の男のようになった。
そして、2006年に筑紫さんと当時の西野智彦プロデューサー(現・「報道特集NEXT」プロデューサー)に身を引き取っていただく恰好で「23」に復帰。この6月いっぱいで二度目の「23」を卒業した。

「筑紫哲也ニュース23」は、ベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦に終止符が打たれた1989年にスタートした。不謹慎だが、ニュースはやっぱり面白い。めぐりめぐって、時代は、グルジア情勢を巡って再び「冷戦再来」の構図に回帰しようとしている。アメリカや日本のリーダーも交代の時期を迎える。
ジャーナリズムの英知が試される時、筑紫さんの「座標軸」が是非とも必要だ。
キース・リチャーズが答えた次のセリフを贈りたい。
「俺の仕事に引退はない。死ぬまで続けるよ」


2003.1.22 シカゴ公演