23時の記憶

第6回 2009.2.6 「Education and Development」

吉岡 弘行(WEB多事争論編集委員)

「ある種、アマチュアに徹した人だった。いろんな組織にすっと入っていける人だった」
(姜尚中さん 1月26日の早稲田大学シンポジウムより)

「自分のことを一度も偉いと思ったことなかったんじゃないでしょうか。人と会うのが楽しくてしょうがないという人だった」
(藤原帰一さん 1月31日の立命館大学シンポジウムより)

先月、筑紫哲也さんを偲ぶ会が、生前に教鞭をとっていた2つの大学で開かれた。
上記は『WEB多事争論』賛同人の「筑紫像」である。
立命館大学のシンポジウム『筑紫さんからの伝言、未来への宣言』に、私もパネリストの一人として招かれた。そこで大変興味深い話を聞いたので、久しぶりに筆をとった次第。

ディスカッションのテーマは『学びの可能性〜この国のガンを克服するために』だった。
司会を務めた立命館大学国際関係学部長の高橋伸彰さんが、面白い話をされた。

明治時代に、「多事争論を通じて自由な気風が保たれる」と説いた福沢諭吉と、初代文部大臣になった森有礼の間で「Education」の日本語訳をめぐって論争があったそうだ。
福沢は、教育の最も大切な目的は一人一人のこどもが持っている先天的あるいは後天的性向や能力をできるだけ育てることにあり、そのことを『学問のすすめ』で「Development」と表現した。
森は、教育の目的は国家の理念に沿ったかたちでこどもたちを育てることにあると主張した。
高橋さんは福沢の意見に賛同したうえで、「『学ぶ』ということは、幼虫がさなぎになり、脱皮していくための『きっかけ』や『手助け』をすることにある」と語った。上からの教育ではダメだということなのだろう。

筑紫さんは、2003年に母校の早稲田大学の教授になり、2006年から亡くなるまでの2年半、今度は立命館大学で客員教授として教鞭をとった。このことは、あまり知られていないと思うのだが、晩年は「ニュース23のキャスター」と「大学教授」という「二足のわらじ」をはいて、若者たちとともに学ぶということに情熱を注いだのだ。
立命館のシンポジウムでは3期にわたるゼミ生が、筑紫さんから学んだことをプレゼンした。最後の仕事として大学という場を選んだことについて、学生たちは「筑紫さんの根底には『平和を希求する心』があり、学びの可能性を信じ、若者に伝えることで、この国の未来を良くしていきたかったのではないか」と考えた。
そして、何を学んだかを簡潔に10点ほど列挙している。ここではその中から、筑紫さんの「学ぶ姿勢」を5つあげておきたい。

* 「学ぶ」ことは「疑う」ことだ。自分、常識、現在を疑え。
* 現在を知るために過去を学べ。
* 少数派であることを恐れるな。
* 「であること」に満足あるいは屈服せず、「すること」を心がけよ。
* 書を持って街に出よ。

筑紫さんは、ニューヨークタイムスのコラムニストだったジェームス・レストンという人にある取材の後で「ジャーナリストという仕事って何なんでしょうかね」と尋ねたそうだ。レストンは即座に「永遠の大学院生だよ」と返したという。
ジャーナリズムの世界では、新たな出来事が起こり、それを正確に報道し、そのことをどうとらえるかーー絶えず「学ぶ」ことが求められる。
上記、5つの姿勢は、いずれもジャーナリストにとっても不可欠な要素だ。

パネリストの一人だった藤原さんは、「この国のガンは何か」と問われて「自民党でも麻生政権でもない。『私たち』がどのように考えて、どう行動するのかが重要です。本来、『私たち』が『公け』なのに、今の日本では『私』と『公』が対立するかのように議論されていることが問題なのです」と答えた。
2009年は『私たち』が主人公になる年だ。早晩、総選挙が行われるからだ。真価が問われるのは、我々報道に携わる者も同じ、まさに「大変の時代」だ。
今年も『WEB多事争論』を通じて「自由な気風」を吹かせられればと願っている。


1月26日 早稲田大学シンポジウムの姜尚中氏
1月31日 立命館大学シンポジウムの藤原帰一氏
1月31日 立命館大学シンポジウム会場の様子