23時の記憶

第4回 2008.9.19 「Town Hall Meeting」

吉岡 弘行(WEB多事争論編集委員)

2008年4月21日の午後4時過ぎ、私は金閣寺の近くにある立命館大学・衣笠キャンパスにいた。
正門を入って右手に「創思館」という建物があり、1階が定員130人のすり鉢状のホールになっている。客席には60人ほどの学生が座っていて、先ほどから壇上の椅子に腰かけた筑紫キャスターの方をじっと見つめていた。
筑紫さんの横の大きなスクリーンには、東京・赤坂のTBS・Bスタジオの調整室(Bサブ)から送られてきた映像が映し出されていた。
ホールの様子は、クレーンを含む4台の中継カメラがおさえている。
カメラの映像はMBS(毎日放送)のSNG車(衛星中継車)で、ボタンをスイッチングして切り替える。クレーンで会場全体をとったり、筑紫さんの顔にズームしたりできるし、反対側から学生の様子を撮ったりできるようになっているのだ。

私はSNG車の中で、東京のBサブと連絡を取りながら、カメラワークやスイッチングにつてMBSの中継担当のスタッフに指示を出す役目だった。
東京のスタジオを仕切るのは後藤謙次・膳場貴子の両キャスター。特別ゲストとしてハングル語が堪能で韓国でも人気が高いSMAPの草彅剛さんを迎えていた。
草彅さんの顔がアップになった。
「今晩は、ニュース23です。
今から60年前、韓国の小さな田舎町に貧しい少年がいました。その日の食べ物にさえ事欠く家に育った彼は、苦労を重ねて大きな会社の会長になりました。そしてその後、彼は政界に身を転じ、大統領にまで登りつめたのです。第17代韓国大統領、李明博(イミョンバク)さんをお迎えしましょう!」
こうして、「23」のスペシャル番組『熱論風発〜韓国・李明博(イミョンバク)大統領があなたと直接対話』の収録が始まった。

「ある国のリーダーが市民と直接向きあって対話する集会」は、アメリカ民主主義の源流に由来し、「タウン・ホール・ミーティング」と呼ばれている。
このスタイルは、18年以上続いた「筑紫哲也ニュース23」の『十八番(おはこ)』だ。
今からちょうど10年前、1998年11月に実現したアメリカ合衆国のビル・クリントン大統領の市民対話が始まりだった。私たちTBSで働いているスタッフにとって、この歴史的な試みはとても名誉なことだった。経験豊富な筑紫さんにとっても、印象的な仕事だったのだろう。その著書『ニュースキャスター』(集英社新書)の中で、このときのアメリカ大使館サイドとの交渉や準備、プログラム実現までの過程をかなりのページを割いてつづっている。
「大統領がやってきた」の章は、次のようなエピソードから始まっている。
交渉の最終段階で、当時の砂原幸雄TBS社長はトーマス・フォーリー駐日大使に「合衆国政府はいかなる理由でTBSをお選びになられたのでしょうか?」と質問したいという衝動をどうしても抑えることができなかったという。
電話での問いかけに対し、大使は「私たちは国内外における御社の報道にかける姿勢と実績を高く評価しております。また、TBSは信頼しうる立派な放送局であると考えております」と答えたそうだ。
10年後のTBSに「その姿勢と信頼ありや」と問われれば、すべての社員が「そうだ」と胸をはって果たして答えられるかどうか―――答えは必ずしも「イエス」ではないのではないか。ただ、「そうありたい」という希望は決して失っていないつもりだ。
最初のタウン・ホール・ミーティングは、収録直後にクリントン大統領自身が3つの理由を挙げて賞賛したように大成功だった。
「彼(筑紫キャスター)が素晴らしい働きをした」と大統領は言ったという。(ちなみに二つ目は参加者の質問が広範かつ真剣だったこと。三つ目は同じことをアメリカでやってもこれほどにはうまくいかなかっただろうということだった)
ところが、筑紫さん自身は「実は欲求不満だった」というから恐れ入る。
「職業柄、やはりやりたかったのは“サシ”のインタビューだった。インタビューだったらここは大統領の答えに“二の矢、三の矢を放つ”ところなのだがと思いながら、参加者になるべく質問の機会を与えようと禁欲を強いたことでの欲求不満だった」というのだ。

最近、為政者に対して“二の矢、三の矢を放つ”べき場面があった。
今月1日の午後8時半、福田首相が突然、会見を開いたときだ。
TBSは午後8時20分過ぎから特別報道番組にはいった。他のテレビ局も程度の差はあったが、会見が始まるとゴールデンタイムのレギュラー番組はすべて首相の顔に切り替わっていた。
会見の内容を要約すると「『ねじれ国会』で野党が駄々をこねて審議が進まないから、今の状況が続くかぎり首相は続けられない」という何とも呆れたものだった。
実際「NEWSWEEK」のクリスチャン・カリル東京支局長は「世界が呆れた『敵前逃亡』」と題した記事を書いた。
そもそも日本国憲法は二院制を前提とした議会制民主主義を採用しており、「ねじれ国会」は特殊なことでもなんでもない。それこそ「想定の範囲内」である。
外国の例を見てもフランスの「コアビタシオン」、アメリカの大統領と議会の関係など、「政治的ねじれ現象」は珍しいことではなく、その中で粘り強く議論を重ね、妥協点を見出すことがリーダーには求められているのだ。
官邸で行われる会見は、質疑応答に制限時間が設けられている。
辞任の会見なのだから、お尻の時間を決める必要などないとい思うのだが、そういうわけにはいかないらしい。
その模様をテレビで見ながら「なんで記者たちはもっとたたみかけるように首相の無責任ぶりを追及しないのだろう」とイライラした視聴者は多かったはずだ。
会見の最後になってようやく「中国新聞」の男性記者が、「ひとごと」というキーワードを使って鋭い問いを発した。
これに対し、首相は「『ひとごとのように』とあなたはおっしゃったけどね、私は自分のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と珍しく気色ばんだ。
せっかくゴールデンタイムで放送しながら、面白かったのはこのやり取りだけだった。
質問する記者に“二の矢、三の矢を放つ”勢いがなかったし、本社で特別番組を組んだ側も「創意工夫」に欠けていた。
この会見をうけて自民党の総裁レースに立候補したのは5人。テレビ各局は早速スタジオに5人を呼んで討論番組を組んだ。
ある時、最有力と目されている候補者が「公明党さんも我々と一緒に政権を担当されて、責任の重みを感じられたと思いますよ」と得意げに答える場面があった。
しかし、キャスター陣はなぜか次の質問を発せず、コマーシャルに入ってしまった。
番組をみていた人は「責任の“重み”じゃなくて、政権の“うま味”ではないのか」と追及することを期待したはずである。

自戒をこめていうと、今回の一連の報道で私たちテレビ局は「公明党」の存在をもっと取り上げてしかるべきである。
自民党の議員と党員が身内のトップを選ぶレース―――というのが総裁戦の本質なのだが、現在の政権は「自・公の連立」が前提だ。首相が辞めた経緯も含め、パートナーの政党がどういう影響を持っているのかをもっと多角的に報じる必要があるのではないか。
私は「生存権」や「教育を受ける権利」、さらには「表現・学問・職業選択」などの数多くの「自由権」など日本国憲法が保障している人権のカタログのなかで、「参政権」が最も重要な権利だと考えている。
リストラや、医療、就学問題などあらゆる面で「格差」が拡大している今の状況で「生存権」や「教育権」よりも「参政権」のほうが上だと言うのは誤解を招くかもしれない。
しかし、一票を投じる権利を行使しないことには、決して「格差社会」を変えてゆくことはできない。具体的に法律を定めたり改正して、問題の解決を図るのは政治家の仕事だからだ。そのために私たちは「納税の義務」を負っている。
ジャーナリストの大きな役割の一つは、この「参政権」の行使に役立つように「政治家に関する情報をできるだけ多様に提供すること」だと思っている。
TVジャーナリズムの場合、放送局への特別な免許はそのために与えられているといっても過言ではない。
放送法は「公正中立」を謳っているが、あるニュース項目をどこに持ってくるのか、またそのニュースに分量をどれだけ割くのか―――といった基本的なところで、すでに「公正中立」はあり得ない。NHKが、時として意図的に権力側に有利にメニューを構成するのを私はいくつも指摘できる。
政治報道に関して「政治家にもプライバシーはあって、私生活など何でもかんでも報道していいというものではない」というセンセイがたまにいる。
しかしこれも誤解を恐れずにいえば、政治家にプライバシーの権利はほとんどない。特に「代議士」と呼ばれる政治家には。中でも総理大臣や閣僚、与党幹部のプライバシー権は限りなくゼロに近い。
その一挙手一投足が国民にさらされてしかるべきだし、それが嫌なら選挙に出なければいいだけの話だ。
このことは現在進行形で行われているアメリカ大統領選挙のすさまじい論戦と報道合戦をみれば一目瞭然である。共和党が新しい副大統領候補にアラスカ州の女性知事を据えると、民主党は「豚に口紅」と痛烈に批判するし、マスコミは女性候補の“資質”(大統領が不在になると自動的に副大統領が昇格するため)を徹底的に報道する。
こんなふうに言うと“ガチガチの報道原理主義者”のように受け取られるかもしれないが、そこは違う。
私は“右”でもなければ“左”でもない。あえていえば“個人主義者”だろうか。
したがって「23時代」は、ライフスタイル(シリーズ 「GO SLOW」)や社会現象(シリーズ「壊」や「ウツの時代」)、あるいは筑紫さんと特定の人物の対談など、むしろ政治分野以外で「企画」を制作することが好きだった。
昨今、批判も多い『バラエティー番組』も大好きである。
『人を笑わせたり、なごませたりする能力(タレント)』というのは素晴らしい才能で、これができる人は絶対数が少ないのだ。
『笑い』を提供するプログラムを組むことは、閉塞感が強まっている今の日本にとって大切な放送局の役割だと思う。
私は20年間TBSの報道局に籍を置きながら「政治部」の経験がない。
これまで取材対象の「権力」といえば検察庁や裁判所、海上保安庁や航空鉄道事故調査委員会などだった。自分の立ち位置として、極力、「庶民」あるいは「弱者」、「被害者」の側にたってものを考えてきたつもりだ。
特に「司法記者クラブ」に所属し、検察官や裁判官、弁護士の方々と世の中の不正や不条理について話をきくのは貴重な体験だった。
政治ニュースに関わりだしたのは、1998年に「社会部」から「23」に異動してからだ。政治部の記者クラブを知らないことも一因かもしれない。今回の辞任会見に関わらず、どうしても最近の政治部記者の質問は「ユルい」と感じてしまう。
「政治部の一流の記者は、会見とは別の場でネタをとるものだ」「何を偉そうに」と言われるのは承知のうえだ。

筑紫さんは特定の派閥を担当しなかった稀有な政治記者である。
アメリカ占領下の沖縄とワシントン特派員、それにニューヨーク暮らしという経歴を見るといかにも「アメリカ通で、アメリカ・ファンだろう」と思いがちだ。
「通」は正しいが、決して「ファン」ではない。本人も「私は『新米派』ではないし、いわゆる『アメ大』(アメリカ大使館)通いの常連ではない」と語っている。
「ここ数年、特に9・11後のアメリカには色んな面で以前ほど魅力を感じなくなった」という話を個人的によく聞いたし、議論もした。
10年前のイベントも決して我々のフリーハンドだったわけじゃない。アメリカ大使館を通じて様々な制約事項が設けられた。その辺の事情は『ニュースキャスター』を読んでいただけるとよくわかるのだが、筑紫さんは「『広島・長崎』と『沖縄』は『しておかなければいけない質問だ』と思っていた」と強調している。
アメリカのトップを迎えた、一種ショー的な要素があった番組でも、押さえるべきツボは押さえる人なのだ。
たぶん「23」にゲストとして来る政治家は、それなりの覚悟を持っていらっしゃっていたのではないだろうか。
筑紫さんのインタビュー・スタイルとして「聞き手」としての優しさ、巧みさは誰しも認めるところだろう。議論を吹っ掛けるような感じではなく、あくまでソフトに話をひきだしながら会話のキャッチボールを盛り上げていくやり方だ。
ところが、安全保障や歴史認識、表現の自由の制約といったテーマになると、一転して“凄み”を帯びる。自ら“二の矢、三の矢を放つ”こともあれば、同席している他のキャスターやゲストにうまく話をむけて厳しい質問をぶつけさせるなど、やり方は様々だ。
「政治家には『あの番組には“凄み”がある』と思わせておかなければダメだ」というセリフを何度も聞いた。
『討論』にかかわらず、VTRの受けコメントなどで筑紫さんが“凄み”をみせたときの政治家の反応は面白い。
たとえば、このWEB多事争論の「6・23記念パーティー」をクリックして自民党の元官房長官だった野中広務さんのスピーチを見てほしい。
「筑紫さんから言われると、少々憎いことでも文句をいう気になれない。そういう存在であったことが大きいと思うわけでございます。我々は再び筑紫さんが画面に登場してこの国を思い、この日本民族の将来にかけて溌剌として発言してくださることを心からお祈りします」――――お祝いのスピーチとはいえ、野中さんの「憎いことを言われても文句をいう気になれない」という言葉は、案外、本心だったと思う。
亡くなられた後藤田正晴さんとの対談を私は何度か担当したが、後藤田さんもそんな趣旨のことをおっしゃっていた。
一方で――総選挙も近そうだし、ご本人の不利益になるので実名は避けるが―――放送中や放送直後に「23」のスタッフ・ルームに、圧力や脅しとも取れる電話を直接かけてきた政治家を何人か知っている。
基本的にプロデューサーが対応するマターだが、中には私自身が編集長としてやり取りしたケースもあった。放送を見ながら酒を飲んでいたり、普段から“放言癖”があったりする人がこんな電話をかけてくる。

クリントン大統領に始まった市民対話は、2000年10月の中国・朱鎔基首相、2003年6月の韓国・慮武ヒョン(ノムヒョン*ヒョンは金へんに玄)大統領と続く。
そして、今年に入ってからは『不都合な真実(An Inconvenient Truth)』で警告を発した米国のアル・ゴア元副大統領を招いて「地球破壊スペシャル」を放送し、3月には英国のトニー・ブレア元首相を招いて市民対話を放送した。
直近が4月21日の韓国・李明博大統領だったわけだが、東京と京都にキャスターが分かれたのには微妙な事情があった。
筑紫さんが闘病生活を続けながら京都の立命館大学で教鞭をとっていたこと、後藤キャスターが「23」の後任になって初めての本格的なプログラムだったことが前提としてあった。さらに、できるだけ日本の若者と対話をしたいという「青瓦台」の意向もあり、東京のスタジオには幅広い層の観客を集めたが、京都会場は学生だけにしぼったのだった。
私は京都の責任者で、3月下旬から大学側と打ち合わせを始めた。
中継技術、カメラマン、照明さんなど京都パートに携わるスタッフは30人余り。MBSの責任者と会場を下見したり、中継システムを構築したりする作業と並行しながら、学生の人選をしていった。
大統領に具体的に何を聞きたいのか事前にアンケートをとり、MBS報道局の小野智也ディレクターと60人の学生を一人一人面接した。
正味80分の収録時間のうち京都パートは20分ほどだったため、誰がどんな分野に関心を持っているのか整理しておく必要があったのだ。

こうした準備作業に比べ、本番の収録はあっという間だった。
東京では、スタジオの一部の観客がピントはずれな質問をしたり、必要以上に自分のことをしゃべってしまい、予定の収録時間をかなりオーバーする気配があった。
「早く話を切り上げて、次の質問者にいけ!」「あのVTRは飛ばさなくちゃ・・・」などと怒号と悲鳴がインカムを通じて伝わってきた。
そんな様子をスクリーンで見ていた筑紫さんは、自分の声が収録されてないのをいいことに結構、文句を言っていた。学生たちに向かって「こっちにマイクを渡してくれれば、うまくやるのにねぇ」といって笑いを誘ってもいた。
そうした中で私の役目は一つ。時間的な「しわ寄せ」が京都に来ないよう配慮することだった。Bサブから「京都の質問者を減らしてください」とか「質問のパートをひとブロック落としてください」と頼まれても、「それじゃ筑紫さんと学生たちに失礼じゃないか。東京で何とかしろ」と言って譲らなかった。

実際、京都の学生たちは立派だったと思う。
高校時代にハングルを学ぼうとした際、親しい人から「なんでハングルなんや」と反対された経験を持つ女子学生は「近くて遠い国だと感じた」と素直にきいた。
また、「サブプライム問題やイラクの泥沼化でアメリカの国際的な地位が低下している中、なぜ『親米路線』を鮮明にしたのか」と問いただした学生もいた。
さらに、修学旅行の実行委員として韓国コースの企画を担当している女子高校生が「相談にのってもらえますか?」ときくと、大統領が「青瓦台にメールをください。詳しくアドバイスしてあげますよ」と答える微笑ましい場面もあった。
中国のチベット問題をどうみるか尋ねた大学院生もいた。
それゆえ収録後、筑紫さんは「京都の時間がもっと欲しかったね」とちょっぴり残念そうだった。

80分の市民対話を李大統領は次のように締めくくった。
「日韓両国が『近くて遠い国』ではなく『近くて近い国』にならないといけません。両国が真の意味で協力すればお互いの繁栄に役立つでしょう。そして、我々の力は北東アジアの平和にも貢献できるはずですし、世界の繁栄と平和にも貢献できます。日韓両国がうまく協力できるように私なりにベストを尽くします。日本国民の皆さん、韓国にもう少し前向きな目を向け、好感をもって受け入れていただきたいと思います。本日は本当にありがとうございました」

小泉、安倍政権で冷え切った日韓関係をどう修復するのか―――そんな期待もあった。
あれから5ヶ月、李大統領の支持率は急速に落ち込み、苦境に立たされている。
一方、日本のリーダーは早々と白旗をあげ、舞台から去ってしまった。

「23」からは15日に佐古キャスターが到着した。
現場にも足を運んだが、ビルがあったところに近づくにつれ店や住宅に降りかかった土煙りの跡が増えていき、ショウウィンドウなどの壊れ方も激しくなっていく。いわゆる「爆心地=グラウンド・ゼロ」は、おびただしい瓦礫の山である。

現場近くで中継するアメリカのテレビ局の車には、ある時から星条旗が掲げられるようになった。テレビは「Attack on America」などとサブタイトルを入れっぱなしにして、これが「アメリカに対する戦争」であることを強調していた。愛国心が次第に熱を帯びていた。

結局、帰国の途についたのは9月24日。
私は「もう少し現場に残りたい」と言ったのだが、「23」の編集長業務も回すのがしんどくなっていたようで、金平さんから「帰ってきてくれ」と言われ、20日ぶりに日本に帰った。

「23」では、終戦の日の8月15日と年末の最後の放送日に特別番組を編成する。
2001年の年末スペシャルはクリスマス・イブの24日、テーマは「世界が変わった日」だった。


グラウンド・ゼロ前の筆者

グラウンド・ゼロから生中継するため、今度は筑紫さんと草野さんを伴って私は3か月ぶりにニューヨークを訪れた。
近くのセント・パトリック教会には、まだ、多くの行方不明者の写真と情報を求める張り紙がびっしりと張られていた。
クリスマス・シーズンで表面的にはきらびやかなブロードウェイも、道行く人々の表情は何となく不安げで、冷蔵庫の中にいるような凍てつく寒さのニューヨークは何とも重苦しかった。
大みそかは、筑紫さんと星野支局長の奥様とメトロポリタン劇場でプッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」を観た。
「ボエーム」とは、定職を持たずに自分の好きな生き方をして漂う「ボヘミアン」から生まれた言葉だ。
世界は「9・11」以降、予想のつかない混とんとした方向に漂い始めていた。

あれから間もなく7年。冒頭で記したように日本は次々とリーダーが代わり、アメリカもブッシュ大統領が表舞台を去る。
この7年の日米関係がよかったのかどうか、「給油法案」も含めてきちんとした検証が必要だし、それなくしては「このくに」はさらに漂い続けるばかりだろう。


年末SPを終えたショット(NY留学中の進藤晶子さんもいた)