23時の記憶

第5回 2008.10.10 「半歩先」

金富 隆 (WEB多事争論編集委員)

そのひとが声を荒げるのを、わたしは見たことがない。
どんなときも変わらぬ、深く柔らかな声。
銀髪の奥からは、いつも他者を拒まぬ優しい目がのぞく。

それはそのひと一流のダンディズム(やせ我慢)なのかもしれない。
だが、個人的にそばで仕事をしてきた7年間、
決してぶれなかったその所作は、
わたしのような小人からみて、驚きというほかない。

今回は(書き手が)小人らしく、ごく小さなことからひもといてみる。何年も前に、筑紫さんの講演旅行に、故あって付き合ったことがある。月〜金でニュース23をこなしたあとの週末、そのころ、筑紫さんの土日は、地方への講演旅行で埋め尽くされていた。北海道から沖縄まで。講演はどうしても断れぬ縁のあるものに限られていたが、それでも土日とんぼ帰りは、ほぼ毎週続けられていた。

あれは確か初夏の長崎だった。
長崎に先着していたわたしは、筑紫さんの飛行機が羽田を離れるころ、必要あって局の車両部に電話を掛けた。…筑紫さんの車なんですけど、予定通り羽田に着いてますか?「ちょっと待ってくださいね。ええと。筑紫さんの迎えの車は、きょうは出てないですね」あれ?出てないはずないんですけど…。「いやいや確かにきょう、迎えの車の手配は出てないですね。間違いないです」。

自宅までの迎えの車の手配は、番組でもっとも年若い、ADと呼ばれる若いひとたちの役割とされていた。

汗ばむその日、長崎空港で合流した筑紫さんは、照れたように笑っていた。
どうやって羽田まで?「…いや別にいいんだよ。いくら待っても車が来ないからさ、これは忘れられたなと思って。でも構わないんだよ別に。通りに出ればいくらでもタクシーが拾えるんだからさ」
前の日に車の手配を頼まれたADさんは、それをすっかり失念していた。よくよく聞くと「迎えの車忘れ」は実はこの日だけでなく、当時ひんぱんに起きていた。筑紫さんにとっては、自分で流しのタクシーを拾うのも(あえて言えば)そのころの日常のひとつだったのだ。

番組としてこういうことは、あってはならないことである(どんな会社でも社長のケアをしない会社はないだろう)。だがこのとき、”別に騒がなくていいよ、このことは誰にも言うなよ”。笑う目はそうも言っていた。

自分が怒りを少しでも見せれば、年若く、弱い立場のひとが傷を負いかねない。
そういう優しさがそこにはあった。弱い立場のひとへの目線は、どんなときも暖かい。この「どんなときも」というのが、実はとても難しいのだと思う。思想がリベラルでも、他者へのふるまいがリベラルでないひとは山ほどいる。その意味でこのひとは筋金入りなのだ。

…ただ一方でそこには、仰々しくされるのは嫌いだ、そんな単純で、しかし切実な思いもあった気がする。何より愛するのは、単身で動き回る自由。好奇心の赴くままにどこへでも行く。時にはひとりで地下鉄に乗り、無名の写真家の展覧会にも顔を出す。そう言えばおかしな脅迫が増えた時期があり、心配になり「警備とか付けなくて大丈夫ですか?」と聞いたことがある。…ええ?いいよ。この話は一言で終わった。

「君は戦闘機乗りの、適性について聞いたことがあるかい?」こう問いかけられたのは、そのずっと後のことだった。深夜、ふたりきりだった。なぜそんな話になったのか、脈絡はもう覚えていない。「戦闘機乗りってのはね、半歩先を予測する力がとても大切なんだ。先を予測する力を持たない奴は、空中戦でまず落とされる。…でもね、半歩のさらに先、一歩先とか二歩先が読める奴、これも戦闘機乗りには向かない。なぜって、先の先を読もうとする奴は必ず恐怖心にとらわれるからだ」

そして穏やかに言葉はこう続けられた。「先を読む力はまったく無くてもダメだし、ありすぎてもダメなんだよ。未来を読むのは大事なことだけど、どこかでそれを遮断するのが必要なときもある。…考えるのをやめちゃうんだよ」

語られたのは、戦い続けるために必要な心のありよう。柔和な笑顔の一方で、このひとは一貫して戦いの中にいたのだ。語られた心のありようは、ぶれずにいる覚悟というべきものなのかもしれない。政治、経済、社会、すべてに混沌の度合い深まる時代。…筑紫哲也、そのひとの帰還が今ほど待たれることはない。小人たるわたしは、半歩先、半歩先と言い聞かせながら、日々をやり過ごしている。