23時の女神

草野 満代

2009/02/13

 この「WEB多事争論」が立ち上がってしばらくして、リレーエッセイを書いて欲しいという
依頼があった。去年の夏ごろのことだった。
番組のオンエアーとは違って、厳密な締め切りにおわれることもなく、
「そのうちに・・・」などとのんきな言葉を担当者に返して、はて何を書こうかな?と思案しているうちに、晩秋、筑紫さんがいなくなってしまった。 私や、周りにいた多くの仲間たちは、確かにがん闘病中の筑紫さんではあるけれど、その病気と「死」が一向に結びつかなくて(といっても、そんななわけがなかったのだが・・・)、長い療養生活になるにしても、訪ねていけば、いつものあの笑顔で迎えてくれるもの、と信じていた。
 それくらい、おいしいものには目がなくて誰よりももりもり食べていらした姿や、一番年長なのに歩くのが早くて私達をすいすい追い越していく後ろ姿や、毎晩のようにコンサートやオペラの舞台に足を運んでしまう「好きなコト」への衰えない好奇心や、そしてなにより、戦中戦後の混乱の時期に少年時代を送り、「生きる」ことへの並々ならぬ執着を目の当たりにして、勝手に、「不死身の筑紫さん」像を作り上げてしまっていた。
 病状からすれば、あっけなく、忽然と・・ということではなかったのかもしれないが、その死から3ヶ月がたった今でも、私はまだ「筑紫さんがいない」ということを受け入れきれていない、ように思う。

 「筑紫さんとの一番の思い出はなんですか?」と多くの人に聞かれた。
 「あの事件の現場取材で、こういうことがあって、その時に・・」というような具体的なエピソードが、実はあまり浮かんでこない。むしろ、たわいのない会話や、デスク席を囲んでみんなで夕食の弁当を食べているときの顔や、多事争論の言葉を筆書きする真剣な眼差しとか、「日常」の風景が、次々に蘇ってくる。そして、悲しくなる。
 ジャーナリストとしての颯爽とした姿や、築き上げたものについてもさることながら、その人間としての魅力に引き寄せられて集っていた仲間がとても多いように思う。自分の親よりも年長の方に使うのは適当ではないかも知れないが、筑紫さんは、「愛すべき」大人だった。
 「23」のデスクだった金平さんもどこかに書いていたけれど、弁当を食べてはぽろぽろこぼすし、原稿を書きながら左手に持ったタバコの灰が落ちるのも気づかないし、本番中、急に鼻水がずるっと出て、スタジオのADさんたちが「ティッシュ!ティッシュ!」と大慌てしたり、髪の毛が多くてシャンプーが苦手で、メイクさんに「髪くらい自宅で洗ってきてください」と小言を言われつつ、それでもにこにこ気持ちよさそうに洗ってもらっていたり・・・。
 スタッフの中では、飛びぬけて年長者だったのに、誰よりも子供のようなところがあって、それを皆が「しょうがないわね・・・」なんていいながら、ついつい手を出してしまう・・という図。
 きっと、残された私達は、集まるたびにこういう筑紫さんのことを思い出しながら、酒を飲み続けるのだと思います。

 去年の12月19日。筑紫さんをしのぶ会。11時からの「関係者」の集まりに出席したものの、その場を去りがたく、14時からの「関係者以外」の方々の弔問の様子を、佐古さんと、元「23」の井上ディレクターとともに見ていた。
 多くの人が、筑紫さんの遺影を見つめて、泣いていらした。私達もその姿に涙した。
 多分、直接筑紫さんと面識があったわけではない人たちが、筑紫さんの死を悼み、我がことのように涙を流してくださっている。私達の番組は、こういう人々に支えられていたのだと思うと胸が熱くなった。

 筑紫さんはどういう人でしたか?と聞かれ、こう答えた。
 「強くないものすべてに、優しい方でした」

 そういう思いが、「23」という番組を通して、見る人に伝わっていたのだと思う。

2009.2.12記