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金平茂紀(かねひら・しげのり)
1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」「沖縄ワジワジー通信」など多数。
#4 取り違えられた「帰属」
2013/10/07

(c) Rapsodie Production/ Cite' Films/ France 3 Cine'ma/ Madeleine Films/SoLo Films
少し前にみた2本の映画について書こう。同じテーマを扱っているようにみえるが全く異質な2本の映画についてだ。赤ん坊の取り違え。本来の生みの親の手に渡るべき赤ん坊が、取り違えによって別の親のもとにわたり、相当な歳月が経ってからその事実が発覚した場合、その当事者、それから生みの親、育ての親、そして家族、友人たち、何よりも取り違えられた本人たちは、どうしたらいいのか。そこから何が見えてくるのか。
一本は言うまでもなく、カンヌ映画祭で審査員賞を見事に受賞した是枝裕和監督の『そして父になる』だ。その試写会会場でのことだ。尊敬する会社の先輩・宮内鎮雄さんと出くわした。宮内さんとは、たまに試写会場で一緒になることがある。と言うより、一年間にみる映画の本数という点では、宮内さんの右に出る者は僕の周囲ではあまりいないんじゃないだろうか。その宮内さんが『そして父になる』を見終わった直後に「金平君は『もうひとりの息子』って見た?」と聞いてきた。「あれもかなりいいよ」とにやりと笑った。なら、見るしかないだろう。
『そして父になる』については、もうさんざんとレビューが書きつくされたあとなので、何を今さらの感がするので、僕が感じたことだけを率直に書く。何しろ福山雅治という役者をどう使うかがあの映画の最大のチャレンジングなポイントだったんじゃないだろうかと想像する。それが実に奏功していた。企業社会でエリート階層をめざそうとするタイプのプチブル的な存在感という点で福山は実によくはまっていた。つまり内面を感じさせないのだ。「育てた息子」が取り違えられていたことが判明したあとの自己中心的なうろたえ方とか、福山が演じたがゆえに映画がどんどん面白くなっていく。孤独感を抱えながら一人歩いていく「育てた息子」と並行して福山が歩くシーンでは『泥の河』をなぜか思い出したり、「育てた息子」がひそかに撮っていたカメラ映像を福山が凝視するシーンも、西川美和の『揺れる』の仕掛けを思い出したりした。それぞれ福山が演じたからいいのだ。それに比べて、あの映画のもう一人の父親役リリー・フランキーは内面を感じさせるのだ。本当の主人公は彼の方だったのではないと僕はあられもなく書いてしまう。あの映画で取り違えられたのは、それぞれの家族が日本という狭い同質性の強い社会のなかで所属している庶民階層とプチブル階層という「階層」だったのではないか。そこが乗り越えられるのかどうか。結局、福山演じる父親があの映画を通じて「父になった」のかどうか、危うさを残したままで、それがよかった。
『もうひとりの息子』の方は、イスラエルのロレーヌ・レヴィ監督が2012年に製作した映画で、ユダヤ人とパレスチナ人の赤ん坊同士の取り違えが成年期になってから判明するという、いささか強引な設定だが、そこで取り違えられた「帰属」先が、互いに反目し憎悪しあう対象となっている現実を引き受けるというしんどい作業が映画で行なわれているのだ。この映画ではどちらの家族のなかでも母親という存在が「生んだ息子」にも「育てた息子」にも等価の愛情を注いでいることが救いのような形でストーリーに埋め込まれている。取り違えられたのは「民族」という帰属先だ。映画では徐々に緩やかにその取り違えが「是正」されていくように見える。そのことを「和解」という言葉を使っていいのかどうか、僕にはわからない。民族的な対立を超える普遍的なものがたりがこの先に用意されているのだろうか。むしろ僕がこの映画で異様に関心を引かれたのは、その「是正」劇の進行の背景にある「風景」に対してだ。両家族はヨルダン川西岸地区パレスチナ人居住区と、イスラエルのテルアビブという2つの場所にそれぞれ住んでいる。その交流自体の困難さ。パレスチナ人居住区を入植によって侵食していくイスラエル。それを象徴する「壁」の存在、検問所。
取り違えられた「階層」と「民族」。その取り違えられた「帰属」は「是正」されるべきなのかどうか。僕には正直わからない。<家族のようなもの>は今も考え続けている重いテーマだ。でも、この2つの映画がはからずも示しているのは、是正を強いる何らかの強制力があって、そこから人間はなかなか自由にはなれない現実があることだ。「帰属」を無効にするほどの普遍的なものが母親や父親のこどもに注ぐ無償の愛情か。とにかく、あのリリー・フランキー一家のような家族ならパレスチナ人居住区でもテルアビブでも生きていけると思うけれど。
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