続・カルチュアどんぶり画像

金平茂紀(かねひら・しげのり)

1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」「沖縄ワジワジー通信」など多数。

#13 女性器たちの呟き・叫び・笑い

2014/04/25


 ある日、女優の木内みどりさんからメールが入って住所を教えて欲しいとのことだった。返信すると、まもなくして一枚の葉書が届いた。『ヴァギナ・モノローグ』の案内だった。ありゃりゃ、これは行かないわけにはいかないなあ、とすぐに予定表に書き入れた。イブ・エンスラーのこの戯曲については全く知識がないわけではなかった。アメリカに住んでいた時に話題になっていたのを、ニューヨークタイムズか何かの新聞か雑誌で読んでいたのだろう。原題は「The Vagina Monologues」で複数形になっている。つまり複数のさまざまな女性器の持ち主たちの独白から浮かび上がってくる真実に向き合う戯曲なのである。さっそく呼称をめぐって真実に向き合うことの困難に直面する。それはヴァギナなのか、おまんこなのか、女陰なのか、女性器なのか、ぼぼなのか、まんちょなのか……。そこに注がれる愛と暴力と禁忌。だが、それらの暴力と禁忌と愛は誰がもたらし課すものなのか。それらに思いを致すことによって、みている僕らは、この現実の世界の拡がりとありようを認識することになる。その意味で、ヴァギナは宇宙につながっているのだ。
 ステージの上には、6人の女性たちが椅子に座り観客と正対する形式で、それぞれのヴァギナにまつわるストーリーを朗読する。役者もいれば、アクティヴィストもいれば、弁護士もいる。年齢もさまざま。朗読自体がプロの人もいれば、アマチュアの人もいる。だからいい。記憶に強く残ったストーリーのいくつか。おそらく老女のヴァギナに関する追憶。こころときめいていた男性とのデートの最中に愛液でドレスが濡れてしまった、そしてそれを男性から悪し様に言われたトラウマによって、以降の人生でヴァギナの自由を封じ込めてしまった老女の独白。あこがれの女性から、ヴァギナの喜びの手ほどきを受けたときめきの経験を語る少女の独白。ヴァギナがもたらす声。顔がひとりひとりみんな異なるようにアクメの時に漏れる声はみな異なることを語る女性。コルセットやタンポンで締め付けられ痛めつけられるヴァギナの不快感を怒りをもって告白する女性。
どうしても触れておきたいのは、戦場で男性兵士によって暴力によって侵入されたヴァギナたちの告発だ。おそらくこの戯曲がつくられた1994年当時に国際社会で最も非難を浴びていた戦時性暴力の舞台、旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ戦争の際に告発されたレイプ被害者たちの声だ。それは日本でいま舞台を見ている僕らに、戦時中の従軍慰安婦の存在を想起させたし、そしてそれを「どこにでもあったことじゃないですか」と公言したNHKの現会長の言葉を想起させたし、さらには「(慰安婦にされたことに)強制があったことは証明されていないじゃないですか」と公言して河野談話の見直しをやろうとした日本の現政権の反知性主義を想起させてくれた。
観客席には僕も含めて多くの男性客がいたことは当たり前のことだと思うのだが、この戯曲が初演された当時はアメリカにおいてさえそうではなかったようだ。『ヴァギナ・モノローグス』はおそらく、国境を越えてどこの国のバージョンでも成立しうる。願わくば、翻訳版ではない日本版の『ヴァギナ・モノローグス』を誰かが書かれんことを。そこに登場するのは、アメリカ統治下にあった沖縄・コザの基地前ゲート通りの女性器たちのモノローグであったり、福島第一原発事故からそれほど離れていない小名浜の歓楽街の女性器たちのモノローグであったり、非正規雇用の女性社員たちの女性器の窒息するような環境でのモノローグであったり……。この戯曲の観客から最も遠い場所にいるのが、おそらく、ほらあそこに集って「男女共同参画」とかを呼び掛けているこの国の為政者たち(なかには女性もいる)だと僕は思っている。この戯曲が近い将来どこかで必ず再演されることを切望する。