変えてはいけないもの

金平茂紀(かねひら・しげのり)

1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。

#4  横澤彪さんの葬儀で考えたこと  

2011/01/16


横澤さんの葬儀会場にて

短くない年数をテレビの世界で働いてくると、僕のような人付き合いの下手な人間でも、これは素晴らしい人だなあ、素敵な人だなあ、ホンモノだなあ、と思わされる人物に出会うことがある。前回のこの欄でもちょっとだけ触れたが、横澤彪さんはそのような人物のひとりだ。ホンモノだなあと思っていた。フジテレビでお笑いブームを開花させた人である。『俺たちヒョーキン族』は本当によく見ていた。それまでとは違った笑いがあった。アダモステとか今でも大好きだ。ただ僕が出会った横澤さんは、TBS番組審議会の委員としての横澤さんだった。そのもの言いが柔らかいながらもとても鋭どかったのだ。1月14日は快晴だった。横澤さんの葬儀に参列した。池上本門寺まで僕の自宅からはかなりの距離だ。その日は午後一番で取材が入っていたので、午後1時半までには会社に戻らなければならなかった。式は午前11時から始まった。山門の前に大勢の人がいた。有名タレントさんたちが弔問に来るので見物に来たのだろうか。片岡鶴太郎とか山田邦子とか野々村真とかの顔が見えた。境内にも僕らの同業者のカメラマンがたくさん取材に来ていた。僕は取材でも何でもない。個人の意思でやってきた。かなり規模の大きなお葬式だった。笑顔の横澤さんの大きな遺影が正面に掲げられていた。式の進行が正直ちょっと仰々しい感じもした。ところがそのお葬式が弔辞を聞く段になって、僕は激しくこころを揺さぶられた。山崎努、栗原小巻が弔辞を述べた。だが、最初に弔辞を読んだのは友人代表で、横澤さんの東大文学部時代からの親友かつフジテレビ時代の同僚だった中本逸郎さんだった。中本さんの弔辞は、親友でなければ語り得ない深い内容のものだった。中本さんは静かに断言した。横澤さんのフジテレビでの人生は決して平坦なものではなかったのだ、と。中本さんの弔辞によって、僕は横澤さんが新聞記者を志望していたこと(父親が朝日新聞の記者だった)や、ノンポリながら60年安保反対デモに加わった経験があること、フジテレビ入社後に労働組合設立運動に参加したがゆえに、当時の経営トップ鹿内信隆の逆鱗に触れ、懲罰人事として関連会社に飛ばされ辛酸をなめたことなどを知った。その懲罰を食らった仲間には、現在のフジテレビの日枝会長や村上社長らもいたという。中本氏は言った。「君は権力を誇示する人間、権力にこびへつらう人間が大嫌いだった」。「僕ももう少しでそっちに行くから待っていてくれ」と中本氏は結んでいた。あたたかい弔辞だった。聞いていて不覚にも涙が出てきた。徹底的な権威・権力嫌い。そのような性格だったからこそ、横澤さんは新しい笑いを作り得たのだと僕は思った。焼香に向かう時、ふと気付いた。朝、あわてて自宅を出てきたので、喪服だと思って着てきた上下をよくみたら、何と黒ではない濃紺のスーツだった。何やってんだか。だがそんなことはもうどうでもよかった。やすらかにと願を込めて掌を合わせた。会場外の境内にいた僕らの同僚たちは葬儀後に、参列したタレントさんたちにマイクを向けるだろうが、中本氏の言葉はおそらく紹介されないだろう。けれども横澤さんを語ってくれたのは、友人代表の中本さんだと僕は思った。理不尽なものへの怒りが横澤さんにはあったことを証言してくれたことに感謝したい気持ちで、ひとりで本門寺をあとにした。

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