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金平茂紀(かねひら・しげのり)
1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。
#22 再び、変えてはいけないものについて
2013/01/10

このサイトの存在の意味をもう一度だけ再確認してみようと思う。なぜWEB多事争論というサイトが立ち上げられたのだろうか。その「初志」は、時間の流れのなかでどのように変容したのか。あるいは風化したのか、していないのか。2008年の夏にさかのぼってみる。筑紫さんはまだ存命だった。当時、僕らはある怒りの感情を抱いていた。僕らを取り巻く理不尽なものごとの進捗に対して怒っていた。なぜこんなことになるのか、と。なぜ自分たちにはそれを跳ね返すちからがないのか、と。その中心にいた当事者のひとりは筑紫さんでもあった。その怒りの表現の仕方に考えの相違や濃淡はあっただろう。けれども、黙っているのではなく、WEBサイトを立ち上げて声を上げることから何かを始めて行こうじゃないかというコンセンサスは辛うじて成立していた。その後、筑紫さんは亡くなられた。人の死は必然だ。物理的に人の生命が持続している時間には限界がある。あなたも僕も、彼も彼女もあれらの人々も必ず死ぬ。生命のみならず、あらゆるものは流転・変転する。だが、流転・変転のなかでも継承されるものがあると思っていた。それは言葉にしてしまうと、とてもとても陳腐になってしまうものだ。それは「思い」だ。「思い」が引き継がれることがある。なぜ「思い」が継承されるのか。かつてそこに共感・共有があったからだ。今になって、筑紫さんを偶像化したり個人崇拝したりするのではない、氏の苦悩と喜びとたたかい、遊び心を少しでも共感・共有した人々が、そのthe way of life(生き方、生きたありさま)の一端でも引き継いでいこう、ということだったのではなかったか。
筑紫さんがもし今生きていたら、いま現在のテレビ報道のありようを何と言っただろうか。あれらの報道特別番組をみてあの人ならば何と言っただろうか。あれらのドキュメンタリーもどきをみてあの人ならば何と言っただろうか。あれらの権力者との距離の置き方をみてあの人ならば何と言っただろうか。そうした想像力の拡がりと、このWEB多事争論の存在する意味は深く結びついているのだと、てっきり思っていた。いや、ひょっとして、筑紫さんが生きていたならば、もう何も言わずにただ笑っていただけかもしれない。もう、いいんだよ、と。けれども筑紫さんは、このWEB多事争論を立ち上げる時に言っていた。<ひとつの「論」の専制が起きる時、失われるのは自由の気風>と。2008年の夏のことだ。自由の気風! 僕らの周囲を見回してみようではないか。自由の気風はどこに行ったのだ? 清志郎だって歌っていた。<短いこの人生で 一番大事なもの それは俺の自由、自由、自由>だって。
忘却は人間に定められたいわば常習癖だ。人はきっと忘れる。日本人は、あの津波被害や原発事故のことだって忘れ始めているではないか。忘れること自体は悪いことばかりではない。けれども忘れたふりをするのだけはごめんだ。なかったふりをするのだけはごめんだ。そうやって「論」の専制の支配に協力していくのだけはごめんだ。滅私はごめんだ。忘れてはならないことがある。変えてはいけないことがある。
だから、いま一度このWEB多事争論を活性化させてみてもいいんじゃないか。と、僕は真っ白な雪原を目の前にして、今いろいろなことを考えている。だから、これを書いた。ちっ! 白が目にしみやがる。
