変えてはいけないもの

金平茂紀(かねひら・しげのり)

1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。

#18 マスメディアの発する情報は誰のためのものか?  ひとつの答――地域に生きる人々 

2012/03/06


「森のゆめ市民大学」閉校講義にて(同事務局撮影 以下の写真も同様)

 富山県魚津市に行ってきた。筑紫さんが「学長」をつとめていた「森のゆめ市民大学」の閉校セッションに参加するためだ。2002年の開校以来、10年の歴史を重ねてきた市民大学が幕を閉じるにあたって、最後の基調講演を頼まれたのだった。筑紫さんが魚津でそのようなことをしていたのは以前から知っていたが、筑紫さんの郷里の大分県・日田での「自由の森市民大学」と同じ試みなのだったのだろう程度の知識でしかなかった。生前、筑紫さんはそのような自身の活動を「大学ごっこ」などと呼んで楽しんでいた。魚津の会場は、故・池田弥三郎氏がかつて学長をつとめた洗足学園短期大学魚津校の元校舎だ。元校舎と書いたのは、同校はすでに廃校になっていて、建物だけが「新川学びの森天神山交流会館」として残っていた。ここを訪れたのは初めてだったが、何と立派な元校舎か。有効利用しないと勿体ないと正直思った。会場をみていて、本当に市民ボランティアが中心になって動いている手作りの市民大学という印象を受けた。過去10年の講師陣の顔ぶれをみたが、多方面から多彩な人々がここに駆けつけていた。すでに亡くなった人もいる。以下敬称略。立松和平、C・W・ニコル、半藤一利、古謝美佐子、稲本正、大宅映子、野中広務、宮本亜門、茂木健一郎、田中優子、菅原文太、小山内美枝子、田部井淳子、福岡政行、立川志の輔………。何という豊かな人選か。閉校にあたって実行委員長の澤崎さんがこんな風に述べていた。<始まりがあれば終わりがある。筑紫さんの「森のゆめ市民大学」は本日の講座をもって幕を閉じる。本学の意義は「ただ高説を拝聴するのでなく……その高説を自らの生活に活かす事が必要」。この筑紫さんの開校の言葉に集約される。言うだけや聞くだけではなく、いかに学んだ事を行動に移せるのか。そう簡単なことではないが、そこが本学の根っこの部分。その根っこの上に更なる枝葉をつけること、それが今後の課題である>。受講者たちの平均年齢は高い。けれどもみんな一生懸命に聞き入っている。メモをとっている人も多い。魚津市だけでなく、富山や氷見から通っていた人もいる。この「学び」への情熱は何だろうか。

 僕はマスメディアに35年以上も勤めてきた。その間、自分なりに視聴者や読者と直接向き合う努力を続けてきたつもりだった。だが、本当に視聴者の姿が見えていただろうか。どういう人々がテレビニュースをみていて何を思っているかがわかっていただろうか。ネット空間に書き込まれる匿名の声なんかではなく、こういう直接足を運んで聴きこんでいる人たち。またそれを支えている人たち。カネを儲けようとか目立とうとか、そういうのと別の次元で集ってネットワークを作ってきた人々。それらの人々が口を揃えて言うのは「筑紫さんが生きていたら今のこのありさまを何と言うだろう」だった。僕も同じ思いを抱きながら生きてきて働いているので、素直にこれらの人々とつながることができた。
 英語の表現にpublic intellectual というのがある。うまい日本語訳がみつからないのだが、知識人・専門家と市民をつなぐ媒介的な位置にいるいわば<市民知識人>のような存在だ。このような人が不在の社会はうまくものごとが機能しない。例えば、アメリカのエド・マローやウォルター・クロンカイトはそのような人物だった。筑紫さんはそのような人物だった。<3・11>をはさんで、そのような人物が不在である日本という国は、不運な展開を遂げている。もういい加減に足の引っ張り合いにうつつを抜かすのはよそうとは思わないか。
また、筑紫さん自身も、このような「知ること」への情熱に体を動かす市井の人々に触れることで、業界まみれのメディア社会と距離を保って、心の拠り所、心の洗濯の場所を得ることができていたのだろう。魚津に集っている人々をみてそのように実感した。考えてみれば、筑紫さんは幸せな人であった。接する善意が多ければ多いほど、人は善意を他人と共有できる。だから、僕らが、すっかりメディアに対する信頼感を失った人々から「マスメディアの発する情報は誰のためのものなのですか?」と問われた時、そのひとつの答は<地域に生きる人々>と答えるべきなのだと思う。

富山県魚津市は、実は僕の父親が生まれた地だ。僕がワシントン支局に勤務していた2003年の8月に他界した。この魚津で父は新聞配達をしながら苦労して中学を卒業し、地元の小さな銀行の外回り行員となった。その父を知る人が聴講者の中に数人いた。不思議な縁を感じた日だった。


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