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- #14 誰のために、何のために、何を報じているのか?

金平茂紀(かねひら・しげのり)
1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。
#14 誰のために、何のために、何を報じているのか?
2011/09/16
陸前高田市の「一本松」(9月10日、筆者撮影)
東日本大震災の発生から半年が過ぎた。その日、僕は岩手県の陸前高田市にいた。大津波によって壊滅的な被害を受けた市街地は、瓦礫が撤去された(正確には数か所に集積された)ので、何にもない更地と、解体しなければならない大きめの建物だけが残っていて、基本的には何も復興していないのだった。その場所を訪れるのは4カ月ぶりだったので、以前取材で訪ねた場所をできるだけ回ってみた。県立高田高校は、まったく前のままだった。壊すしかないのだろうか。東京から来たボランティアの若者たちが、個人情報の絡んだ私物を収集撤去していた。旧市役所や仮設住宅、津波で生き残ったお寺さんの境内、自力でプレハブ住宅を建てたお爺さんの住居、野田総理御一行がちょうど視察に来た松原の「道の駅周辺、そして、奇跡的になぎ倒されずに残った一本松。半年の時間の経過とはこのようなものなのか。
一本松は緑色の縄のようなものをグルグル巻きにされて「補強」されているのだろうか、まるで包帯を巻かれた重症患者のような感じで、見ているだけでとても痛々しかった。
正直に言えば、今年の9月11日はアメリカ同時多発テロ事件から10周年の節目とも重なり、少し前までは、ニューヨークのグラウンド・ゼロか、あるいはアフガニスタンに取材に出かけて、あの「世界を変えた日」と、いま日本の私たちが直面している「3・11」を何とかつなげる試みをできないものか、と考えていた。だが、8月末から急きょリビアに取材に入ったため、時間的な制約があってそのような取り組みができなかった。残念だがそれが今の自分の実力である。「9・11」と「3・11」をつなげる想像力を、僕は個人的には絶対に失いたくないと思っていた。それは難しい言葉遣いになってしまうけれど、「受難を自己正当化の根拠とする思想」を相対化する視点を獲得することにつながると思っているからだ。アメリカ人の多くは今でも「9・11」を世界の歴史の最大級の悲劇だと思っている。その悲劇からくる報復感情を抑えられず、対アフガン、対イラク戦争を遂行した。正義の戦争として。あのオバマでさえ、オサマ・ビンラディンをまさに暗殺した後に、「Justice has been done.(正義が遂行された)」と国民に語った。グラウンド・ゼロで行われた「9・11」当日の追悼式典で、犠牲者の名前がひとりひとり読み上げられた。それはそれでいい。だが、僕らは、アメリカが引き起こした対アフガン戦争、対イラク戦争で死亡した名もないアフガニスタン市民たち、イラク市民たちの名前が刻印され、追悼され、名前が読み上げられる場面を想像することはない。
9月11日、僕は陸前高田の荒涼たる更地を前にして、目の前にまさに数百、数千のグラウンド・ゼロがあることを思い知らされた。そのことになぜ気づかなかったのか。この目の前のグラウンド・ゼロはどのように復興を遂げていくのか。僕にはまだそれがまったく見えていない。地域の共同体の人々の善意と心意気。夏祭りの太鼓。都市生活者になってしまった僕には、遠い、かすかな記憶の世界だ。それが広大なグラウンド・ゼロの片隅で響いていたことを僕なりに確認した。僕らは東北の数千、数万のグラウンド・ゼロを凝視し続けなければならない。
* * * *
その足で新幹線に乗り、東京に戻った。東京の風景は、時間の経過とともに、まるで「3・11」以前のように戻っている。テレビから流れている番組をみろよ。まるで「3・11」なんかなかったみたいに、嘲笑と罵倒と、グルメとニューハーフと、国家による道徳の押し付けと、多数派が跋扈していた。ある大学の会合に向かった。そこで僕は、科学者とか研究者とか専門家とか今の社会で認知されている人々と話し合った。マスメディアにかかわっている人たちもいた。共通の言語を探し出すまでに苦労した。お互いの間に相互不信のようなものがあったからだ。だが、少なくともその場は「3・11」以降の諸状況の変化に自覚的な人々が集っていた。なかなか議論がかみ合わず、論じ合うことによって発見や驚きが得られる感じから遠ざかっていく様子がみえ始めた。その時、参加者のひとりがこう発言した。「マスメディアの皆さんに申し上げたいのは、誰のために、何のために、何を報じているのでしょうか?」
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このように存続して、このように筑紫さんの遺志を継いで、このように日々争論していることになっている僕らは、いったい誰のために、何のために、何を報じているのだろうか。「特ダネ」とか「独自ダネ」とかを取ってきて、それに大文字スーパーを張り付けて報じて、社内で表彰されるために報じているのではないだろう。ニュースにもできないことをTwitterやFace Bookで報じている場合ではないだろう。状況の切迫感覚に僕らは鈍感になっていないか? ひとりよがりになっているのはもっと最悪である。僕らはもがこう。違和感を表明しよう。でなければ圧倒的な「3・11」以前への復元力によってやられてしまう。政治が、政治報道がそうなってしまったように。彼らはささやく。元のように戻ればいいんだよ、つべこべ言わずにさ。そうすればお客さん(視聴者)が帰ってくるよ、と。