変えてはいけないもの

金平茂紀(かねひら・しげのり)

1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。2010年10月からは「報道特集」キャスターを務める。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」「NY発 それでもオバマは歴史を変える」など多数。

#13 All Things Must Pass.

2011/08/02


インマーマン氏を囲んで(2010年 NYにて)

 この連載を始める前に、「Web多事争論」サイトで『コロンビア大学漂流記』というのを2年にわたって書き綴っていた。その主な舞台となったコロンビア大学東アジア研究所で、僕らが大変お世話になったロバート・インマーマンさん(79歳)が亡くなられた。7月22日、旅先のロサンゼルスで心筋梗塞による急死だという。インマーマンさんは元国務省の外交官で、日本大使館にも永年勤務していた。コロンビア大学東アジア研究所での日本からの客員研究員(Professional Fellow)受け入れの責任者であり、日本研究に関係したBrown Bag Lectureなどの企画も担当していた。なかなか魅力的なレクチュアのラインアップも、氏の尽力に負うところが大だった。生涯、独身で、オペラやクラシック音楽をたしなみ、リンカーンセンターやカーネギーホールで出くわすこともあった。セントラル・パークに面した瀟洒なアパートに住んでいた。その室内は彼の日本文化への理解をよく表す調度品に彩られていた。オペラの趣味については、氏の立場はどちらかと言うと保守的で、意表を突くようなメトロポリタン・オペラの演出には、「こんなに滅茶苦茶をした」とこぼしたりしていた。『アッティラ』や『夢遊病の娘』の舞台セットに苦言を呈していたのを覚えている。その一方で『蝶々夫人』の新演出はどれも気に入っていたようだった。
 『東アジア研究所には、ジェラルド・カーティス教授やキャロル・グラック教授ら錚々たる日本研究者がいるが、近年は中国研究者が勢いを増してきていて、さらに韓国からの研究者も増えつつある。インマーマン氏の急死で、同研究所の日本研究部門の将来が大きく影響を受けるかもしれない。だがそんなことは、インマーマン氏の死を悼むこととは別次元のことがらだ。コロンビア大学における日本研究熱が減退していくとしたら、それは日本側の学術文化交流における発信力・情熱の減退と深く関係していると思うからだ。
 インマーマン氏は、去年の夏、僕らFellow仲間で「卒業」に際して何か小冊子を残そうと計画した際に、資金面での馬鹿にならない援助を快く決めて下さったり、孤立しがちな日本人Fellowたちの飲み会にも快く参加していただいた。ありがたいことだった。ご冥福を祈らずにはいられない。

       *         *         *

 7月30日(土)をもって、赤坂TBS近くのある一軒の中華料理屋さんが閉店した。1970年の開店以来、41年続いたそうだ。僕も主に二十代、三十代と、その店の出前にはお世話になった人間なので、敬意を表して閉店直前のその店「天宝」に行った。閉店時間の午後7時半をとっくに過ぎていた。「もうすでに食材がないんですよ」と言われたが、ビールだけでも飲もうと思った。店内は馴染みのお客さんたちしかいなかった。最期を見届ける覚悟の人たちなんだろう。ようやくありつけたのは餃子とシュウマイだけだった。あの名物の特丼(とくどん)はとっくに完売していた。みると、カウンターで老夫婦が言葉を交わすこともなく黙々と食事をしていた。このようにして赤坂の町の歴史は変わっていく。


「天宝」最後の夜①


「天宝」最後の夜②


「天宝」最後の夜③

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