新・明日への伝言
この国のガン〜全ては『スローライフ』に〜
近藤 千寿枝(一期生)
遅まきに失するが、今となって気づく。全ては『スローライフ』に始まり、全てが『スローライフ』にあったのだ。筑紫氏により多くの方々と出会い、稚拙ながらも多くのテーマについて考えを巡らせたが、全ては『スローライフ』にあったように感じる。
氏のメッセージに、「問題は単純だ」とある。『スローライフ』に述べられている問題、「この国のガン」もまた、単純である。それは、「成長すればするだけ幸福になる」という「単純な座標軸」だけが、この国において幅をきかせていることにある。憲法問題・格差問題・環境問題・伝統文化の衰退・人間性の喪失、これら全ては「この国のガン」がもたらす症状でしかない。そして、この「単純な座標軸」に乗りきれず、こぼれ落ちた者たちに、極めて厳しい症状が現れる。
ガンの在処(ありか)は単純である。しかし、人に巣くうガンがやっかいなように、この「単純な座標軸」―いかにも単純ではないか、2項の一次式であるのだから―を食い止めるのもまた、やっかいである。なぜならば、この国の症状は、見田宗介「南の貧困/北の貧困」の表現に倣って言えば、この「単純な座標軸からの疎外」の前に、「単純な座標軸への疎外」があるという二重の疎外から生じるからだ。
「単純な座標軸」に乗り切れないだけでは症状は出ない。かつては様々な座標軸が存在し、それぞれがそれぞれの座標軸を、価値観を、生き方を許容し、それぞれの座標軸がそれぞれを支え、2次元から3次元へ立体化していた。ある座標軸からこぼれ落ちても、別の座標軸が拾うことも可能であった。しかし、現代の「この国」のシステムが「単純な座標軸」となって、人は己が座標軸を捨てざるをえない状況、「単純な座標軸」に乗ることが生活の必需となった。ガンの在処は分かっていても、その除去は己の生活の除去につながる。
筑紫氏を喪って、改めてその大きさを感じる日々であるが、氏の言動が多くの支持を得たと同時に、多くの批判に晒されていたことも周知の事実である。その批判の多くは、「ガンを指摘することはたやすいが、除去の方法を指摘できていない」ということであろう。この点について、氏は私達に大きな指針を与えてくれている。「ガン」を除去できなくとも、諦念を抱かず、「単純な座標軸」の上に多くの座標軸を構築していく生を選べということである。『スローライフ』は決して、のんびりしたものではない。