新・明日への伝言
この国のガン〜脆い「鎹(かすがい)」〜
松井 寛泰(一期生)
現在におけるわが国の様々な社会問題の中で、私が非常に気になるのは人々の互助をつなぐ「鎹」が非常に脆くなっているのではないかということである。
20世紀の後半から、私たちは豊かな日本を目指して一直線に走り抜けてきた。その中で生活の利便性の高まりは今も衰ない。交通手段も発達し、世界中を飛び回ることさえも多くの時間を要することがなくなった。そういった中で、人々をとりまく暮らしには長期にわたって同一であるものがない。
例えば、私たち学生の会話の中にも「正門出た所のローソンいこうよ!店員さんがかっこいいの。」「いやもうそこはなか卯だよ」や「円町駅前のニノミヤ集合ね」「ああミドリデンキね」という内容の会話はここ数年の中でもひっきりなしに繰り返されてきた。店や店員は入れ替わり立ち替わりで長期間同じであることは非常にまれである※1。
また下宿においても大学4年間面倒を見てくれる親切な大家さんは過去のものとなり、大学生活の中でも気に入らなければ引っ越すのは当たり前という人も少なくない。就職においても『若者はなぜ3年で辞めるのか?』という本が売れて話題になったが、今日の大学生の多くは仕事を一生続けるというつもりで働くという人はあまりみかけない。こういったように自分も周りも非常に身軽で、移動可能で、入れ替わりが頻繁でといったフレーズが現代社会を表わす的確な表現だろう。
人々はかつて自分たちを強く拘束していた国家、地域、学校、会社などの集団から解放され、選択という自由を手に入れたかのようにみえる。しかし、同時に個人と集団がもつもちつもたれつの互助の関係や責任をもちあう関係は後景に退いた。いまや国家が最終的には助けてくれる、地域が助けてくれる、学校が、会社が…といった感覚は我々には実感できない。現在深刻になっている派遣社員の解雇やリストラ、ホームレス問題から餓死・孤独死までといった様々なリスクから行政・会社が守ってくれるという安定感・安心感はまったくない。人々は競争主義的な世の中で「自分の身は自分で守るしかない」といった不安から逃れられず、それゆえそれらの集団に対する自分が請け負うべき責任も余裕も到底もつことはできない。そして社会的な矛盾の矛先は、特に社会的資源や現世をやり過ごす能力が不足する人々に容赦なく向けられるのである。
もちろん、これまで個人と集団を強固に結びつけてきた「鎹」の変容が社会に大きな財産をもたらしてきたことは事実である。しかし同時に、人々は集団的な互助、責任関係に裏打ちされた「確実性、安定性、安全性」という財産を保障されずに、社会的なリスクを個人的に対処させられているのが現実ではないか。
この国が抱えている大きな課題の一つはいかにして個人的に抱える資源の不足や不幸をすくい取り、なおかつ互助に支えられた集団を意図的に生み出すような「鎹」の在り方を検討することではないだろうか。
※1 立命館大学周辺の昔ながらの定食屋の多くが数十年変わらず、たまに訪れる卒業生に感慨深さを与えていることをあえて付記しておきたい。