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新・明日への伝言

この国のガン

Y.M(二期生)

この課題を与えられたときとても困惑した。日本はガンだらけじゃないか・・・。色々なことがありすぎて何について書こうか迷った。考えた挙句、今流行り――本当は今に始まったことではない――の問題、雇用・労働問題について書くことにする。

命を削る思いでやっと得た内定が取り消され、何とか就職してもサービス残業、挙句の果てには過労死。こうした路線に乗らずに、非正規や派遣で生計を立てようとすると、給料はピンはねされ、危険な業務に回され、十分な社会保障も享受できず、企業の都合が悪くなるとすぐに首を切られる。

こんな中では、労働そのものに魅力を持てなくなる人たちが現れるのも無理はない。しかし、バブル期までいい思いをして「勝ち逃げ」できる世代の人たちは、キャリア形成とか、自己実現とか、労働を通じて達成感を得ることとか、社会貢献することとか、そんなことを言って、金銭面ではない部分で、この路線に若い人たちを乗せようとする。労働を通じてそうしたものを得ることができることがあるのは確かで、その面で労働に価値はある。労働を通じて自らの「善き生の構想」を追求できる可能性については、私も賛成する。

しかしそれを言うのであれば、労働と収入をある程度切り分けてしまってもいいではないか。例えば、最低限生活する賃金は保障された上で、さらに稼ぎたい人は稼げばいい。金銭目的でなくても、上記のようなモチベーションから働きたい人は働けばいい。だが、そんなことをすれば労働意欲が失われて誰も働かないようになるという批判がすぐに起こる。ということは、結局は金銭目的でしか人は働かないということなのか。上記の心地よさそうな言葉は建前に過ぎないのか。

もちろん、「善き生の構想」か金銭かの二者択一ではないことは分かっている。しかし前者は賃労働によってのみ得られるものでもない。だから、最低限の生活保障を行われないのであれば、せめて、賃労働以外の部分で自らの「善き生の構想」を追求したい人々が、それをできるだけの労働条件は確保されるべきである。

労働者という言葉がいつの間にか「人材」と呼ばれるようになったが、人間は木材や機材と同じではない。ILOが採択したフィラデルフィア宣言は「労働は商品ではない」と宣言している。しかし、今の日本では人間があたかもモノであるかのように簡単に切り捨てられるている。「地球に優しい、人に優しい」といっている企業が平然と人を切っている。人間を人間として扱わないこの感覚こそが「日本のガン」であり、今さらながらようやく認識され出した雇用・労働問題は、それを如実に映し出したものの一つであると考える。

雇用・労働が取りざたされるとき、よくニートやフリーター、引きこもりの人々が問題視される。私は、働くことに興味を抱くことができずニートやフリーターになる人、外に出ても人間扱いされないから引きこもる人、彼女ら・彼ら――いつまで三人称で呼べるだろうか――の選択を、こうした世界に対する静かな抵抗の一つのありようとして肯定的に捉えたい。