新・明日への伝言
この国のガン〜こんな日本に誰がした〜
鶴田 真琴(二期生)
高齢者は切り捨てられ、教育費は軽んじられ、労働者は容赦なく首を斬られる、なるほど今の日本は病んでいる。それでも莫大な資金が注ぎ込まれ世界でも有数の軍事力を誇る日本の「自衛隊」、一体何を護ってくれると言うのだろう。そこまでして護りたい日本って何なのか、皮肉を込めて甚だ疑問だ。先の大戦での沖縄の経験で、惨いほどにも軍隊は国民を護ってなどくれないことを学んだのではなかったか。いつの時代でも弱者は一番に切り捨てられてきた。より高次と思われることの犠牲に。
一時流行った「美しい国」、笑わせるなよ価値基準まで国家に掌握されたくはないね。政府がアメリカに倣い、挙って推し進めてきた「新自由主義」。人々は強いリーダーを求める。国家はその集客効果を存分に発揮する。どこからともなく引っ張ってくるわ「古きよき日本人像」。うまい口車に乗せられちゃだめだ。踊らされたその結果がこれか。
国家は暴走する。それに歯止めをかける憲法、他でもない私たちのモノで政府に対する足枷。これを生かしてきたのか、第9条は、第25条はどうだ。少しずつ進行していくそのガンを見過ごしてきたのは、許してしまったのは誰だったか。私たち一人一人ではなかったか。憲法第12条の言うところの、日々の不断の努力によって保持しなければならない国民に保障される自由及び権利は、いつしか私たちの手から遠く離れてしまった。この国の子どもたちには目の輝きが足りないと言う。それは生きることに無関心である証である。それはこの国に絶望した大人も同じだ。瞳の輝きを失った人々が支えている社会にどんな希望があるというのだろう。
今の状況を嘆き悲しむことしか術がない?それは嘘だろう。ただ悲嘆に暮れるばかりではなく、自らの日々の怠慢と惰性によって立ち現れた様々な綻びや不正に私たちは異議を唱えなければならない。ガンに真摯に向き合ってくれる有能な医師を送り込まなければ。それを見極め選ぶのは私たちの権利である。人間は政治的な生き物であると私は思う。例えどの様な考えであろうと、その人間の言動には意思が存在し何処へ行こうと付き纏ってくる。政治と無関係には生きていけない。故にそこに無責任でいてはいけないのである。
筑紫哲也は私たちに警鐘と共に視点を提供し続けた。この国と、政治と、ガンとそして物事と向き合うその「姿勢」を問い続け、訴え続けていたんだ。最期まで若者に伝えようとしていた、批判的な眼差し、「私」は誰で何者か、もっと疑え常識を自分さえも・・・。彼が残したものは「自分の目で見て耳で聞き、自らの言葉で語りそして己の足で起てよ」というメッセージではなかったか。一つの大きな指針、メルクマールを失ったこの重みを、私は歳を重ね日本の辿る混沌たる状景を目の当たりにする度に、実感し思い知らされることになるのかもしれない。