新・明日への伝言

この国のガン〜理想なきリアリズム〜

裵 悠(ぺえ ゆう)(一期生)

筑紫哲也、生前最後の多事争論『この国のガン』を振り返ってみて、私が思い浮かべた一番の「この国のガン」は、「理想なきリアリズム」の跋扈、そこにあると考えています。本来政治的な意味を含めリアリズムとは、利益の自然調和的な理想主義(ユートピアニズム)の危険性を指摘し、希少価値の配分を巡る現実の「地獄」を見据えた上で、いかに私たちが目指すべき理想を達成するか。その理想は決して積極的なものではなく、ましてユートピアではありませんが、それに知的情熱を注いだパラダイムであるといえます。

しかし、この国にいま蔓延しているのは「理想なきリアリズム」という「ガン」、単に現状に適応・追随していくことのみに腐心し、この世の「地獄」を「しょうがないじゃないか」と決め付けて受け入れてしまおうとする、そのようなリアリズム「もどき」であると考えています。そして私たちは持てるエネルギーを、それにつぎ込んでしまっています。

例えば、日本を取り巻く政治状況に目を向けてみると、大陸には中国や北朝鮮という「脅威」や拡張主義的傾向を垣間見せるロシアというリスクがあり、南アジアや中東にはアフガン、イラク両戦争後に活発化するイスラム・アイデンティティや原理主義組織のテロリズムが存在します。太平洋の向こうを見てみると、安保再定義・米軍再編・「テロとの戦い」等の文脈の中で兵站の提供や資金面での協力だけではなく、軍事作戦の面での責任分担を求めるアメリカがあります。

日本の経済・社会に目を向けると、グローバル化の渦に巻き込まれ、企業は国際競争力の向上のために人間の尊厳を踏みにじるような過度な効率化、リストラ、人件費の抑制等を行い、株価を上げるとともに、純利益を蓄積させていきました。政府もグローバル化に適応しようと、近年数々の規制緩和・民営化・企業減税を行い、社会保障や教育を切り詰め、マーケット・フレンドリーな「小さな政府」を目指してきました。一方で、過度な輸出依存型経済やまるでカジノのようなマネーゲーム経済と市場原理主義的「小さな政府」は、国内のあらゆる格差を拡げ続け、人間関係や共同体を壊し、筑紫さん曰く「世界で最も子どもの目が輝いていない国」を築いてきました。

近代日本以降の米への反発というエトスを抱えながら、また同盟の「見捨てられる恐怖」・「巻き込まれる恐怖」に苛まれながらも、「脅威」やリスクに対処するには対米従属するしかない。もしくは憲法を改定し自主防衛路線に転換するしかない。グローバルな競争システムの中では、常に経済的合理人(ホモ・エコノミカス)として振舞うことが要求され、「負け組み」にならないために、自分が「勝ち組」になるしかない。

ぼんやりとこの国のあり方に疑問を覚えつつも、暮らしたい社会とのギャップを感じつつもそれが「現実的」な選択である。そのような「リアリズム」が少なからず拡がっています。「異質な他者」との対話や協調を重んじたり、ある程度の結果の平等を求める者は、「サヨク」や現実を見ない「理想主義者」のレッテルを貼られてしまいます。確かに現在日本が置かれている状況は厳しい。しかし、私たちが今こそ使わなければいけないエネルギーは現状肯定的な「理想なきリアリズム」という「ガン」ではなく、その乖離を如何に埋めていくかを考える「理想のためのリアリズム」に注がれるべきだと考えます。

もちろん日本が目指すべき「理想」が何であるかについては広範な議論が必要ですが、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去し」、「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」という日本国憲法前文の言葉を私たちが共有するひとつの理想とするならば、その理想と現実の乖離を、政治家だけでなく私たち市民が「リアル」に認識し、行動していかなければならない、そう考えます。