新・明日への伝言
この国のガン
松尾 真理(一期生)
この国のガンとは、主体性の欠如であると考える。我々は、どれだけ物事を主体的に知ろうとし、感じ、考え、疑っているであろうか。テレビやインターネット、その他情報通信機器の普及によって、確かに簡単に情報は入手できるようになった。それだけで物事のすべては見えないにも関わらず、それらの便利さに慣れてしまい、本来の現場からはずれた認識をしている場合がある。大学生のレポートも、現場に行かずインターネットを使えばそれなりに形が整ったものが出来る。地球の裏側で起こっている戦争や飢餓や貧困も、あくまで我々が知っているのはテレビが流す映像であり、また統計上のものである。社会のすべてを見ることは確かに不可能ではあるけれども、もしかすると現場での真実と我々の認識とのずれが、時に悲惨な結果を引きこしているとも言える。
これまで先生は、国内外の現場まで足を伸ばし、スタジオに留まらない取材を続けてきた。「現場にこそ神が宿る」とは本年度、中坊公平氏との講義で出ていた言葉である。しかし、例えば民主主義の中に生きているとされている我々は、その現場に触れることがどれだけあるだろうか。選挙にすらいかない学生が、私のまわりにもかなり多く存在する。我々は「劇場」などと称してただお茶の間から眺めているだけで良いのだろうか。あまりにも「現場の神様」をないがしろにしすぎているように思う。それは政治に対しても、その他の広く社会に対しても言えることだ。
先生は講義を通じて、普段の生活から憲法、また日本語にいたるまで、少しでも我々若い世代に主体性を持って接するよう説いてきた。TBSの追悼番組で、もう既にこのとき余命は限りなく短かったことを知ったのだが、それでも本年度の講義の冒頭においても先生は「今日から新しい実験を始める」と述べた。大いなる知者と先生、そして学生との間に、「私教える人、あなた教えられる人」という関係を壊して二者のかけ橋となり、また三者が主体性を発揮して(さらにそこにテレビも交えて)新しい主体的な学びの場をつくる試みであった。その講義のすべては、将来的に我が国と、そして世界を担っていく若者への伝言であった。
余命わずかな中での最後の講義・テレビ出演と、最後の多事争論がこの京都で収録された。そして、その中でも先生の視線と姿勢はなおも「明日」を見据えていたと思う。先生からの「伝言」を、いかに咀嚼し「明日」へ生かしていくか。それこそが、最後まで一緒に学ぶことが出来た我々に求められていることだろう。いつかの講義の終わりに、先生は「自分の感受性くらい」という茨木のり子氏の詩を紹介した。その詩は、はっとする言葉で結ばれる。「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」。