コロンビア大学漂流記

金平茂紀(かねひら・しげのり)

1953年北海道旭川市生まれ。1977年にTBS入社。以降、一貫して報道局で、報道記者、ディレクター、プロデューサーをつとめる。「ニュースコープ」副編集長歴任後、1991年から1994年まで在モスクワ特派員。ソ連の崩壊を取材。帰国後、「筑紫哲也NEWS23」のデスクを8年間つとめる。2002年5月より在ワシントン特派員となり2005年6月帰国。
報道局長を3年間歴任後、2008年7月よりニューヨークへ。アメリカ総局長・兼・コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に「世紀末モスクワを行く」「ロシアより愛をこめて」「二十三時的」「ホワイトハウスより徒歩5分」「テレビニュースは終わらない」「報道局長業務外日誌」など多数。

#18 陽だまりのなかで考えたこと(増補版)

2010/03/18

先週末(3月13日・14日)はNYはとんでもない大嵐になって、日本人の感覚で言うと、台風並みの暴風雨が吹き荒れた。ニュージャージーの一軒家に住んでいる人たちは軒並み、停電や家屋の破損、浸水、街路樹の倒壊といった被害にあったと言っていた。地区によって大きな違いがもちろんあるのだけれど。僕はマンハッタンUpper Westに住んでいるので、横殴りの雨と、ものすごいビル風で、持っていた傘の骨が全部折れて、あっさり成仏してしまった。
ところが週が変わると一転してぽかぽか陽気になった。





大学外にあるカフェ「ハンガリアン・ペイストリー」にて

日だまりにいると、もう真夏みたいに暑い。一般にコケージアン=白色人種は日光浴を好む。コロンビア大学のキャンパスでもまだ3月なのに、今日のようなよく晴れた日は、芝生に水着姿で横になって本を読んでいる学生たちが多い。やっぱり白人がほとんどだ。陽だまりのなかにいると何だか時間の流れが変わってくる。何から何までどうでもよくなるような所がある。考えてみると、この1年8カ月のニューヨーク生活は、自分の人生のなかではじめて「漂流」という言葉が最もよく適合しているような状態が多かった。それまでは、当たり前のように決まったルーティーンのなかで、それに何の疑いを持つこともなく、それらを効率よくこなし、適度の達成感とともに生活の糧を得てきた。今の生活にはそのような与えられたルーティーンはない。その意味では自由だ。だが自分からルーティーンを勝手につくろうとしていることにいつしか気づく。決まりごとがないと不安に陥るようなところがあるのだ。自由からの逃走? そんな高尚なもんじゃない。とにもかくにも与えられたルーティーンのなかで仕事や遊びの意味を見出してきたこれまでの人生とは随分違ったモードのなかでいる自分がわかる。学問することの楽しさがちょっとだけ分かったような気になっている。それがいいことなのかどうか、自分でも考えあぐねている。だが、こんな経験はなかなか他の人にはできないことなのかも知れない。組織と個人の関係はそれほど単純ではない。また人間は社会的な生き物なので、組織や共同体なしには生きていかれないことも事実だろう。だが、個人を生きにくくしている組織というものがあることもまた厳然たる事実である。



僕のNY生活の間、自分の生まれ育った国・日本は、大きな変わり目を迎えているように外からは見える。本当にそうなのかどうかはわからない。「漂流」しているあいだに感覚のズレのようなものが生じているかもしれない。だが確実なことは、多くの人が年齢を重ね、何人かの人が亡くなったことだ。敬愛する人も、自分の生き方で大いに影響を被った人も、何人かのそれらの人々が先に逝った。
この「WEB多事争論」は、そのうちの一人の筑紫哲也の遺志を自分なりに何らかの形で継いでいこうという人々が、氏の生前、筑紫邸で思いをぶつけあったことから生まれたと記憶している。そのような記憶が陽だまりのなかでぼんやりしていると生起してくる。遠くから記憶のかなたから声が聞こえてくる。あなたたちはそこで何をしているのか。あなたたちは私の思いがわかっているのか。失われたものは何なのか。裏切られたものは何なのか。
敬愛する先輩のひとり、斉藤道雄さんの新著『治りませんように』(みすず書房)が日本から送られてきた。この陽だまりのなかで僕はその本のページをめくっている。人生は大きな学校のようなものだ。その本に書かれている内容に感応しながら、僕は自分の「漂流」の意味を考えている。

  べてるの家には、人間とは苦労するものであり、苦悩する存在なのだ
  という世界観が貫かれている。苦労を取りもどし、悩む力を身につけ
  ようとする生き方は、しあわせになることはあってもそれをめざす生
  き方にはならない。苦労し、悩むことで私たちはこの世界とつながる
  ことができる。この現実の世界に生きている人間とつながることがで
  き、人間の歴史とつながることができる。このように生きて死ぬとい
  うことが、ほんとうに生きるということではないだろうか。そして語
  り継がれる生き方となり、死に方となるのではないだろうか。
                   (『治りませんように』より)

今週は大学は中間試験が終わって春休み。キャンパスの学生たちの姿はいつもよりもずっと少ない。何かが終わり何かが始まろうとしている。

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